2006-07-01から1ヶ月間の記事一覧
板波の「姫滝」伝説 上の写真を見てください。姫滝伝説で、城があったとされる鳴尾山のすぐ北側を流れる野間川の岩場です。 ちょうど渇水期で、川底がそっくり見渡せます。こんな川底見たことありますか?まるで、溶岩が流れ出し、冷えてそのまま固まったよ…
伝説を追って 滝野に伝わる「姫滝伝説」は前回に紹介した通りです。姫滝は、闘龍灘の下手にかかる滝見橋から約100メートルほど下流にある岩場で、小さな滝になっています。伝説を裏付けるものとして、岩場に、姫の小さな足跡が残っているといわれています…
姫滝伝説(1) 滝野に伝わる伝説の一つに「姫滝伝説」があります。加古川の名勝「闘龍灘」は有名ですが、その下手、新町と上滝野を結ぶ「滝見橋」から少し下ったところに、岩場があります。(写真) 闘龍灘に比べるとだいぶ小さな岩場ですが、加古川の流れ…
同人の名と作品 詩文誌「東播芸術」2の内容を紹介しましょう。 表紙裏の目次は次のとおりです。 表装 T・F生 子か孫の時代 田中 正一 午前九時 石井 高史 第二の太陽 國井 重二 病床から外一篇 藤木 正城 月明頌序曲 神澤 辰司 五月の詩外一篇 岸本 輝夫 …
「東播芸術」2号-1929年 書棚の奥から一冊のうすい冊子を見つけたのはもうだいぶ前のことでした。今日はこの小冊子を紹介します。写真は、表紙と裏表紙です。 「東播芸術」2号は14頁の小冊子です。編集後記の下欄の奥付には次のように書いてありま…
嬉野も田圃と松林が広がっていた この写真は嬉野の天理教社大教会あたりの上空から、市街地を望んだものです。これまで紹介してきた空中写真と同じ昭和30年代はじめの頃のものです。 手前に右手から池が3つ見えます。真ん中右手の白い建物の前の池が「猪…
昔は一面の田圃 この写真は社の市街地のある台地を西の空から写したものです。市街地は写真上部に黒々とした部分が横に走っていますが、ちょうど雲の陰になったようです。 その上部の真ん中あたりに白く光っているものが見えますが、これが嬉野台地に建設さ…
空から見た社の街 写真が小さくて見にくいと思いますが、昭和30年代の社の市街地を空から写したものです。 手前左下が道池交差点あたりです。埋め立てられた道池の輪郭がつかめます。また、未舗装の環状道路が太く白く光っています。今の郵便局のところに…
明治橋から社を見る この写真は、社市街地の北を流れる千鳥川に架かる明治橋の北詰から社方面を写したものです。昭和前期の写真だと思いますが、はっきりとした年代はわかりません。 頑丈そうなコンクリート製の橋脚が6本ほど見えます。橋の上には自動車が…
上組の太鼓屋台 この写真には「昭和12年10月16日祭礼上組屋台」と書き込まれています。 昭和12年(1937)といえば、中国大陸での戦争が拡大していった時代ですが、佐保神社の祭礼はこの年も行われたんですね。 佐保神社の宮元である社の氏子は、…
この大木は・・・ 義経伝説のところで山氏神社の境内にある「義経お手植えの松」を紹介しましたが、今は伐株しか残っていません。 古老の話によれば、「昔は大人が二抱えもするほどの太い幹の大きな松があったんや」ということでした。今の私達には伐株の大…
市街地を南東から望む 市街地の南東から北西を望んだ構図の写真です。向こうに五峰山が今も変わらぬ姿を見せています。しかし、その手前に写っている市街地の景観は今とはずいぶん違っています。 まず、瓦屋根の住宅が密集していることが特徴です。大きな屋…
嬉野から市街地を望む 我が家に珍しい写真があります。その一枚を紹介しましょう。 この写真は昭和初期の社の市街地を嬉野台地の西端から遠望したものです。今の中央公園の池の堤あたりから見た風景です。広い空と平坦な地形は今も変わりません。しかし、写…
社の小字名 大正9年の「社町ノ内社町の字限図」(今の加東市社)から、社の小字名を拾いあげてみましょう。 社市街地を南北に貫く道路をはさんで、北から南へと順に見ていくと、坊の前、坊の東、坊の下など、慈眼寺善龍院や持寶院などの寺院に関係のある名…
「奉安殿」と「二宮金次郎像」 社小学校の正門を入ると、左手のヒマラヤスギの大木のそばに「二宮金次郎」像が立っています。台座の裏に故・黒石素仙さん(元・社の開業医)昭和31年再建とあります。しかし、しばらく前に気がついたのですが、台座の上の金…
善龍院 社の市街地の北、下り坂にかかるところに善龍院があります。 善龍院には、家原浅野氏の菩提所として代々の領主の位牌が納められ、初庚申(年始の庚申日)には多くの人々が参詣しています。 庚申とは、「庚(かのえ)申(さる)」十干十二支の組み合わ…
大師像が安置されるまで 持寶院に伝わる大師像のエピソードを紹介しましょう。 この大師像は名古屋の仏師が作ったもので、仏師はこの大師像をどこかの寺に納めたいと願っていました。その話を大阪に出て商売をしていた社の人が知り、持寶院に持ち込んだので…
日本一木像大師 持寶院の西側に寺の駐車場があり、その正面に大師堂が建っています。中には大きな弘法大師の木像がありますが、加東四国八十八カ所の巡礼の仕上げがこの大師堂ということになっています。 大師堂は、大正14年(1925)に建てられました…
持寶院 持寶院については、「板垣退助が社に来た」で少し紹介しましたが、寺の門の近くに「第八十八番霊場涌羅野山慈眼寺持寶院」と刻まれた石柱が立つています。 これは、持寶院が「加東四国八十八カ所」霊場巡りの仕上げの寺であることを示しています。 「…
若宮神社 持寶院から新池の堤を南に向かって歩いていくと、若宮神社の裏に出ます。 若宮神社は昔から佐保神社の末社とされています。佐保神社の祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子、天押雲命(あめのおしくものみこと)、孫の天種子命(あめのた…
裁判所 社には裁判所があります。現在の庁舎は昭和38年(1963)に神戸地方裁判所社支部、同家庭裁判所社支部、社簡易裁判所の合同庁舎として新築されました。 ところで、社に裁判所が置かれたのは、今から約130年も前の明治11年(1878)のこ…
佐保神社と市街地の成り立ち 社の街のあるところは、昔、「広野(ひろの)」あるいは「涌羅野(由良野(ゆらの)」とよばれる原野で、北は御霊山(ごりょうやま)から、南は松尾あたりまで松林が続いていたようです。 その松林一帯が佐保神社の境内だったよ…
社の市場 田町通り歩いてみると、東西に延びる田町通りの真ん中より少し西より、通りの北側に駐車場や倉庫になっている一角があります。昔、この場所に市場がありました。 市場の名称は「株式会社・社海陸物産定市場」で、塩、魚、乾物、青物、果実などの食…
池だった関西電力あたり 社の市街地で一番高い建物の関西電力社営業所があります。ビルの屋上には鉄塔が聳えていて、社のランドマークになっています。いったい何メートルあるんでしょう。 ところで、関電の建っている場所は、元は池だつたのです。道路をは…
義士祭 赤穂義士の墓は、東京高輪の泉岳寺、赤穂の花岳寺が知られていますが、観音寺の墓碑はそれらに劣らない立派なものです。 毎年、討ち入りの行われた12月14日には義士祭が行われています。この日には、加東郡中学校駅伝大会が開かれていますが、こ…
先月末にタヌキと遭遇。 今朝は池面を泳ぐヌートリアを発見した。 池のふちを歩いていると、池の中に続くけもの道のようなものを見つけていたので、夜の間にヌートリアがおかに上がってくる姿を想像していた。 ふと池面で何かが動く気配が。立ち止まり、じっ…
赤岸の観音寺 社小学校の前の環状道路を西向きに下っていくと、旧国道175号線との交差点に出ます。この辺りは「赤岸」とよばれています。そして、この交差点のすぐそばに観音寺があります。 赤岸という地名 観音寺は大悲山観音寺、古くは湯谷山観音寺とも…
板垣退助、社に来る 明治23年(1890)の第一回総選挙の時に、自由党の板垣退助が社にやってきて、持寶院(社村)で多くの民衆を前に演説をしたことが当時の新聞(神戸又新日報:こうべゆうしんにっぽう)に報じられています。 ところで、自由民権運動の…
社小学校 校長室の二つの額 PTAの仕事で、社小学校の校長室に入ったとき、「八城學校」(はちじょうがっこう)と書かれた額の字が目にとびこんできました。この字を書いたのは、明治の新政府で右大臣や太政大臣をつとめた三条実美(さんじょうさねとみ)…
大石燈籠 楼門脇の大きな石燈籠が参拝者の目を引きます。この大燈籠は日本五大燈籠の一つだといわれています(故・上月輝夫先生談)。 この石燈籠の下部の石には「佐保講」と彫ってあります。明治16年に佐保講の寄付によって造られたことを記したものです…