2006-11-01から1ヶ月間の記事一覧
遵法週間で裁判所を公開 昭和12年(1937)10月1日~5日にかけて、社区裁判所で司法記念日の行事が行われています。その内容は以下の通りです。 1日 10時から裁判所で式典、午餐会及び懇談会の開催 2日 午前8時から午後4時まで庁舎の一般開放…
用意はよいか- 昨日は戦地の兵隊さんに送る慰問袋について紹介しましたが、今日は奉公袋を紹介しましょう。 奉公袋とは、在郷軍人がいつでも戦地に行けるよう必需品を入れておく袋です。ここに社町役場と帝国在郷軍人会社町分会の名で印刷された奉公袋につ…
昭和18年-慰問袋の中 大東亜戦争中、戦地の兵隊に慰問袋が送られました。袋の中には銃後(国内)の人々の気持ちがこめられた品物や手紙、写真などが入っていました。 昭和18年(1943)10月の社町銃後奉公会から区長、婦人会長宛てに出された文書…
昭和10年(1935)2月8日付で社町役場から各区長宛てに「奉安殿落成式余興」の通知が出されています。 通知によれば、2月11日(紀元節、現在は建国記念の日)、社小学校奉安殿の落成式と余興が行われることになっています。会場は社小学校の校庭、…
年賀状の廃止や冠婚葬祭の簡素化など 昭和4年(1929)12月21日、社町(旧、現在の社小学校区域)役場に区長、青年団長、消防組頭、在郷軍人分会長、老兵会長、婦人会長、女子青年団長ら各種団体が話し合い、虚礼廃止などについての申し合わせをして…
9月のはじめに開催 ここに盆踊りの開催届けがあります。日付と宛先は、大正14年(1925)8月30日付で社警察署長宛になっています。 この文書によれば、9月2,3日の2日間、午後7時から11時まで、佐保神社境内で「例年の通り盆の供養として音…
「ど根性道標」 写真を見て下さい。これはアスファルトの道路から上部が少しだけ出ている道標です。気を付けていないと見過ごしてしまうでしょう。 刻まれた字から加東四国遍路道の道標だと思われます。手で指をさした目印が独特です。この道標は上滝野で見…
社町(旧)と加茂村の合併協議案 昭和8年(1933)2月、社町(旧)と加茂村の合併が両委員会で協議され、まとめられた合併協議案は以下の通りです。当時の社町の区域は現在の社小学校区、加茂村は現在の滝野東小学校区の範囲にあたります。 一、 加茂村…
昭和8年-社町と加茂村の合併協議 今年3月20日、社町、滝野町、東条町が合併し、新しく加東市が誕生しました(「平成の大合併」)。昭和30年の「昭和の大合併」から約半世紀を経て旧加東郡(現加東市・小野市域)の北部、東部地域が一つになったわけで…
社尋常高等小学校の納涼音楽会プログラム ここに納涼音楽会のプログラムがあります。今から70年余り前、社尋常高等小学校で開催されたものです。案内には「例によって来る二十三日午後六時半より納涼音楽会を開催いたします。お暑い折からではございますが…
サイフォン 昭和池から三草野を通り、藤田の谷を渡って嬉野台地に水を送っていたサイフォンの呑口、吐口の遺構を紹介しましたが、東条ダムの水もトンネルを通り、谷を越え、野を走って遠くの田まで旅を続けます。 写真は嬉野台地の安政池の近くから東条川の…
嬉野台地へふきだす水 昭和池が造られた経緯についてはすでに紹介しましたが、昭和のはじめ、三草山の麓に人力で築かれたこの大堰堤は今でも私たちを圧倒します。 昭和池に貯められた水は、堰堤の底から水路へと放出され、長い旅が始まります。その水は夏で…
昭和7年(1932)の社町長通知より ここに社町長石井市太郎名で各区長に宛てた通知があります。当時の社町は昭和の合併前のことですから、現在の社小学校区の地域です。 さて、表題は「路上遊戯阻止方ノ件通知」となっており、この件について、社警察署…
西瓜畑とキツネ 昭和56年(1981)頃、昭和池からの用水と嬉野台地の開拓について調べましたが、そのときに聞いた開拓時代の苦労話を紹介しましょう。 嬉野台地は松の生い茂る赤土の不毛の台地といわれていました。その台地に開拓農家として入植して開…
大正13年の大干ばつをきっかけに 加東市の北部、三草山の麓に昭和池があります。昭和池は人造池なのですが、ここにこんな巨大な池が造られた経緯を紹介しましょう。 大正13年(1924)、この地方は大かんばつに見舞われました。これをきっかけに農業…
さあ二年目も勝ち抜くぞ 昭和18年(1943)の年頭、帝国在郷軍人会社町分会と社町役場名のビラがあります(写真)。戦時中だった当時の社町の空気をうかがい知ることができます。以下はビラの内容です。 承詔必謹 ◎さあ二年目も勝ち抜くぞ ◎今日も決戦 …
ダム建設工事 昭和23年(1948)9月1日、前年から行われていた土井部落の立ち退き補償交渉が解決し、ダム建設の調印式が行われました。 鴨川ダム(東条ダム)はどのようなダムだったのでしょうか。 ①高さ 42メートル 長さ 97メートル ②ダムの種類…
弁慶の投げた桜の枝が・・・ 社に伝わる義経の伝承はこれまでにも紹介してきました。「山氏神社のお手植えの松」、「百旗(立)の地名の由来」など多くの伝承があります。 義経とともに弁慶の伝承も数多く伝わっています。その一つ「弁慶の投げ桜」を紹介し…
土井部落の立ち退き 昭和22年(1947)、東条側農業水利事業所が開設され、ダム建設に向けての具体的な動きが始まった。しかし、これは土井の人々にとっては立ち退きという「悪夢」が現実のものになっていくことでもあった。 補償交渉はこの年の末頃か…
沈む前の土井部落 ここに一枚の写真があります。ダムに沈む前の土井部落の全景です。 中央の○印が、ダム建設位置にあたります。写真を見ると、土井部落は周囲を山に囲まれた典型的な盆地の地形であることがわかります。○印の場所が鴨川が流れ出るただ1つの…
湖底に沈んだ土井部落の語り部 昭和56年(1981)、東条湖畔の食堂「富久鶴」に藤原さんを訪ねた。藤原さんは東条ダム建設に伴って立ち退きを余儀なくされた土井部落の住民であり、その由来を語り続けておられた。 店の壁には「土井部落立退ノ由来」を…
先生の実行信条 昭和初期の社尋常高等小学校の一覧に「教育綱領」が掲げられています。このなかで、「本校職員の実行信条」という項目があります。全部で9項目にわたって教師のめざすべき姿勢が示されています。約80年前の我が国の小学校教育がめざしてい…
ここに昭和元年の「加東郡社町立社尋常高等小学校一覧」がある。学校要覧にあたる小冊子だ。冒頭に沿革が書いてある。 明治5年10月社町字坊ノ前涌羅山一乗寺を仮校舎として、知新小学校という名前で上等下等の両小学科の教授が始められた。 明治8年11…
-つづき- 第四部 東条町 部長 西村久雄 第一組 組長 泰井久次郎 第一隣保 世話係 門脇栄治 二隣保 世話係 松本與七郎 三隣保 世話係 肥田信司 第二組 組長 阿江辰五郎 第一隣保 世話係 高橋公治 二隣保 世話係 藤原鶴松 三隣保 世話係 藤本貞次郎 四隣保 …
以前に隣保組織について資料を紹介しましたが、ここに昭和14、15年の社区の文書があり、その中に当時の隣保組織に関する資料があります。当時は戦時体制の下で地域防空、警防体制の強化が図られており、その下での部、組、隣保の体制がよくわかります。…
昭和13年-社町では 昭和13年7月7日(1938)、中国の蘆溝橋で起きた日中両軍の衝突から一年、「支那事変勃発一周年」にあたるこの日に、これを記念する事業が社町で行われています。その実施要項(写真)をみてみましょう。 まず、はじめにこの記…
昭和13年-戦地の兵士へ 昨日は国防婦人会の便りを紹介しましたが、今日は軍事扶助委員の便りを紹介しましょう。内容は戦地の郷土出身兵士への慰問の便りですが、婦人会の文体に比べて堅い感じの候文です。 拝啓 本年は格別の厳寒に候 殊に異郷大陸の地に…
昭和13年 社国防婦人会から戦地への便り ここに社の国防婦人会から戦地の郷土出身兵士へ送られた便り(印刷)があります。昭和13年の年の始めですから、支那事変が起きてから半年ほど過ぎて、長期化し始めた頃です。国内では国民精神総動員の下、戦時体…