2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧
昭和11年(1936)の年末、社町役場から社区長宛に千鳥川(加古川の支流、加東市市内を流れる)の河川愛護作業についての依頼状が出されています。 年末に河川の清掃を行っていたのでしょうが、千鳥川の姿も70余年前と比べるとずいぶん変わったはずで…
昭和12年度の海軍志願兵の栞の内容を紹介してきましたが、今日は志願者心得の項を掲載します。 海軍兵は入団すると、最初は四等兵から始まります。約5ヶ月間海兵団で教育を受けて三等兵になり軍艦に乗ることになり順次進級していくことになっています。海…
出張のため、更新できていませんでしたが、数日ぶりに投稿します。昭和12年度の海軍志願兵の栞を紹介しているところですが、これまで「海軍志願兵の使命」、「各兵種の職務概要」の項目を紹介しました。今日は、「志願手続、検査」についての項を紹介しま…
昨日に続いて、昭和12年度(1937)「海軍志願兵の栞」を紹介します。 志願は、海軍の各兵種から自分の志願するものを選ぶことになっています。自分の体力等を考えて、第一、二志望まで申し出ることができます。しかし、いったん入団したあとは兵種の変…
このブログで昭和12年度の海軍志願兵徴募に関する町から区長への通知文を紹介しましたが、その通知とともに海軍省が作成した「海軍志願兵の栞」が社区事務所の「諸通達綴」に綴じられています。 栞の内容は次の項目で構成されています。 (一)海軍志願兵…
昭和11年(1936)、社町では消防組から各区長宛に出火の際のお礼廻り等の慣習を廃止するという通知が出されています。火事を出すと、酒や弁当を出し、翌日には町内にお礼廻りをするというそれまでの慣習を止めるというものです。通知文を紹介します。 …
昭和11年(1936)、衆議院議員選挙の候補者の選挙事務長に就任するために町長が辞職したという内容の通知文が社区の「諸通達綴」に綴じられています。衆議院議員選挙は2月20日に実施されています。3月3日付で区長宛に出された社町長名の通知文に…
社区事務所(現加東市社地区)の「諸通達綴」の中に昭和11年(1936)1月に開催される選挙粛正映画会の開催通知が綴じられています。選挙違反の防止、公正な選挙思想の普及等を行い選挙の粛正を行うという趣旨のもとに各市町に実行委員会が組織され、…
昭和12年(1937)9月23日、この日は秋季皇霊祭にあたり、当時の社町(今の社小学校区域)では忠魂碑の前で戦没軍人の招魂祭が執り行われています。 社町の忠魂碑は元加東郡公会堂(現、明治館)前の広場にあります(写真は昭和28年当時のものです…
昭和12年(1937)の「帝国在郷軍人会社町分会ノ概要」の中に会歌が掲載されています。在郷軍人会は元々軍隊出身者の親睦を図る目的で組織されたものですが、昭和11年に勅令によって公的団体になっています。 軍人会の主な事業として、国家的な式典や…
加東市新定にあるという忠魂碑をさがして県道小野藍本線の東条診療所の向かい側の小道に入っていった時、すぐ左手にこんもりと茂った木の下に塀で囲まれた一角があり、そのそばに太くどっしりとした道標が立っているのが目にとびこんできました。 県道から入…
加東市新定の記念碑山に中東条村の忠魂碑と日露戦役記念碑があります。県道小野藍本線沿いにある東条診療所の向かい側に山側へと入る小道があり、地蔵さんの脇を過ぎ、分かれ道を右にのぼっていくとさらに小高いところ、きれいに整備された一角にたどりつき…
加東市天神を通る県道小野藍本線が西脇三田線と交差する天神北交差点の中国縦貫道ボックスの南側すぐそばの小高い山に應現寺があります。 車を道路脇に止めて、コンクリートの急な坂道を歩いてのぼると竹藪を抜けたところに應現寺の本堂がありました。さらに…
このブログでも帝国在郷軍人会の名が出てきますが、軍事映画や講演会の開催、神社や忠魂碑での戦勝祈願等、いろいろな場面で在郷軍人会の名が出てきました。 社区事務所の「諸通達綴」の中にこの帝国在郷軍人会についての文書が綴じてあり、概要が記されてい…
今日も昨日に続いて、昭和12年(1937)の社青年学校生徒の教練査閲の内容を紹介します。査閲教練の流れ(順序)は、整列(10分)、閲兵(10分)、各個教練(制式・戦闘)(30分)、部隊教練(密集15分、戦闘15分)、陣中勤務(40分)、分…
昨日に続いて、昭和12年(1937)の社青年学校生徒の教練査閲の内容を紹介します。各個教練(30分)から部隊教練(15分)への部分ですが、着眼点の欄には正確さ、正否といった文言が並び、行進や停止、銃の扱いなどが正確に出来ているかどうかの視…
昨日のブログで紹介した昭和12年(1937)に県立社高等女学校の校庭で行われた社青年学校生徒の教練査閲について、その内容を「受閲計画書」からみてみましょう。敬礼、不動の姿勢、行進、射撃の姿勢、突撃など戦時だった当時の軍事教練のようすが計画…
昭和12年(1937)10月1日、姫路聯隊司令官による社町青年学校の教練査閲が県立社高等女学校で実施されています。社高女学校は現在の裁判所の位置にありました。教練査閲計画書によると、社小学校の校庭で行われる予定だったようですが、改築工事中…
昨日に続いて、郷土出身兵士への慰問の便りを紹介します。銃後を守る軍事後援会(社町)とともに社区(現加東市社)では社区銃後団を組織してさらに銃後の護りを確かにしていくことなどが書かれており、戦地の郷土出身兵を励ます内容になっています。今日の…
昭和13年(1938)、社区(現加東市社)の軍事扶助委員から戦地の郷土出身兵に送られた便りが「諸通達綴」(社区事務所)に綴じられています。ガリ刷りで、青インクの文字がところどころかすれていますが、祖国を遠く離れた異郷の兵士を励ます内容にな…