2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧
加東市立社小学校の校庭の築山に今は庭石として置かれている「令旨塔」の石について、一枚のの写真を手がかりにしてその経緯を探ってきましたが、この令旨塔建設に当時青年団員として熱い思いで関わっていた父の日記から関連する記述を抜き出し、もう一度建…
この写真は、この4月に開催された「春のフェスティバルinやしろ」の今昔写真展に出展した懐かしい昔の社の姿を伝える写真の一枚ですが、赤穂義士ゆかりの観音寺(加東市家原)の境内で四十七義士に扮した青年の記念写真です。昭和初期の頃のものと思われ…
社小学校の正門を入ったところ、西側の大木の側に二宮尊徳の銅像が立っています(写真)。校舎や運動場など私が小学生だった頃とずいぶん変わりましたが、この二宮尊徳像は今も変わらず立ち続けています。 『社小学校百年誌』によれば、昭和10年(1935…
昭和7年(1932)に社小学校校庭に建立された令旨塔(大正9年、皇太子殿下から青年に下賜された令旨を記念して建立)について、このブログで建設にまつわるエピソードを紹介してきました。 そして、その令旨塔を刻んだ石が社小学校の庭石として置かれて…
加東市上三草の旧街道沿い、下三草との境に「孝女ふさ」の碑があります。この歴史ブログでも何度か取り上げ紹介してきましたが、三草小学校百年誌を読んでいると、卒業生の寄稿文の中に「孝女ふさの歌」が掲載されているのが目に入りました。 「孝女ふさ」に…
社小学校の校庭の築山に令旨塔の石が庭石として置かれていることは先日のブログで紹介したところですが、その石のすぐ側に何やら表面に字が刻まれているように見える石があったので、よく見てみると「紀元二千六百年記・・」と読めるのです。高さは1メートル…
昭和6年(1931)の「社町社区長 雑書綴」に社区役員が大阪まで出張した際の実費報告のメモが綴じられています。当時、社区裁判所の停止問題について、当局との交渉のために大阪や東京へ陳情等を行っていますが、この大阪出張もその一つです。当時どうい…
ここ数日、昭和7年(1932)に建立された令旨塔について探索を続けていますが、写真から始まり、社区文書や父の日記からいろいろな事が明らかになってきました。それらについてはこのブログで紹介してきましたが、今日は衝撃の発見!について報告します…
昭和7年(1932)2月に社小学校に建立された令旨塔の建設は、当時の社町青年団の情熱を注いだ一大事業だったことが父の日記や区長文書綴の資料などから明らかになってきました。 昭和5年晩秋の父の日記を読んでいると、「石取り」の表題が時折り出てき…
昭和7年(1932)年1月1日の父の日記の終わりの2行に令旨塔のことが書かれていました。 「令旨塔の揮毫が今日届いた。白川義則大将の筆書だ。大万歳だつた。」 社小学校の校門東側に建設された令旨塔の揮毫は白川義則大将だったことがわかりました(…
このブログで社小学校の令旨塔の写真を紹介してから探索を続けていますが、昭和7年建設という社小学校百年誌の記述をもとに当時社町青年団社支部の団員だった父の日記を読み直してみました。 昭和7年2月28日の日記に「令旨塔除幕式」という表題がつけら…
昭和6年(1931)、社町青年団社支部主催、女子青年団後援の敬老会が開催されています。当時は青年団活動が活発に行われ、昨日もこのブログで紹介した令旨塔の建設も青年団の事業として取り組まれたものです。 当時の区長宛通知が社区長の「雑書綴」に綴…
昭和7年に社小学校に建立された令旨塔について、写真とともに2日前のブログで紹介しましましたが、その後資料を見ていると、令旨塔の建設費の内容に関する文書が見つかりました。 文書は「昭和六年 雑書綴 社町社区長」に綴られており、日付はありませんが…
昭和6年(1931)、社町社(今の加東市社)では電灯調査が行われ報告されています。現在では街灯は当たり前のように市街地のあちこちに設置されており、夜でも明るい町になっていますが、約80年前ともなると貴重な街灯だったのでしょう。 設置場所の報…
古いアルバムの中に忠魂碑のような石塔の写真を見つけました。裏書きがなかったので写真をよく見直してみると、石塔の真ん中に「令旨塔」と刻まれているのが読み取れました。「令旨」という言葉は歴史の中で聞いたような覚えがあります。「以仁王の令旨」で…
昭和3年(1928)11月、昭和の御大典(即位式、大嘗祭、奉祝行事等)が盛大に行われました。旧社町(現加東市立社小学校区域)でもさまざまな奉祝行事が行われましたが、その事業の一つとして翌昭和4年2月に井戸水の水質検査が実施されています。通…
兵庫県立嬉野台生涯教育センター(加東市下久米)の事務棟・食堂の北西側になだらかな傾斜をもって広がる庭にぽつねんと一本の道標が立っています。 表面は白くなって相当古そうな道標ですが、建立年は「文化五年」と刻まれています。西暦1808年ですから…
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋で日支両軍が衝突したことに対し、佐保神社(加東市社)では7月23日の夏季例祭日に武運長久祈願祭が執り行われています。 昨日のブログで紹介したように、戦時中、佐保神社では出征奉告祭、戦勝祈願、戦傷平癒祈願…
社区事務所「軍事関係往復文書」(自昭和十二年七月至昭和十四年二月)には、表題の通り、旧社町(現在の加東市立社小学校区)の盧溝橋事件以後の軍事関係の文書が綴じてあります。 その第一番目に綴じられているのは昭和12年(1937)7月10日付の文…
大正12年(1923)11月23日に開かれた区長会の協議の内容を昨日に続いて紹介します。この区長会では陽暦励行に関する事項、消費節約・陋習改善に関する取り組み事項が協議されていますが、今日はその後半、消費節約と冠婚葬祭等に関する慣習の改善…
大正12年(1923)11月23日に開かれた区長会で、「陽暦励行」について協議されたことはこの歴史ブログですでに紹介しましたが(平成17年9月28日付)、この区長会では陽暦励行に関する事項の他に、消費節約・陋習改善に関する取り組み事項が協…
昭和13年(1938)、未入営補充兵の特別宿泊教育が行われ、その中で射撃訓練が昭和池(加東市上三草)の射撃場で実施されるという案内が在郷軍人会から区長宛に出されています。(社区事務所往復文書綴) 昭和池は大正13年の大旱魃で大きな被害を被っ…
大正11年度(1922)の社町社区(現在の加東市社の区域にあたる)の協議費収支決算報告書が区長の「諸例規諸達書雑書合綴」に綴じられています。 その収入と支出の項目には、当時の葉煙草収納所、西浦倶楽部、畜産市場、税務署、高等女学校等、かつて社…
昭和12年、社町社(現加東市社)の区参与員・正副評議員会が西浦倶楽部で開かれ、持寶院(社)の本堂移転改修の落慶について、区として賑わいを添えるための取り組みなどが話し合われています。社には上組と下組の2台の太鼓屋台がありますが、その2台の太…
昭和10年(1935)、それまでの補習学校と青年訓練所が廃止となり、それらをあわせた形の青年学校がつくられました。その青年学校の教練査閲が実施されることになり、案内が出されています。社町青年学校になったばかりのことです。 写真は社小学校の講…
現在、世界で豚インフルエンザの感染拡大が心配されているところですが、今から70余年前の昭和10年(1935)夏、流行性脳炎が加東郡内に発生し死者も出ていることに対して、予防注意を喚起する通知が出されています。加東郡(現加東市、小野市域)で…