2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧
昭和8年(1933)、郷土出身兵の戦死に際し、町葬が執行されました。その始終を当時の文書綴から見てみたいと思います。 遺骨が帰還するのは5月10日、そして町葬は13日に執り行われています。5月3日に役場で協議が行われ、出迎え、葬儀の段取りが…
昭和8年(1933)の社町社区長の雑書綴に、その年末の区長協議会の内容を記した文書が綴られています。一つは、皇太子殿下の御命名式の祝賀事業、もう一つは凱旋兵歓迎会の要項です。 皇太子(今上陛下)は昭和8年12月23日に御誕生されました。昭和…
昭和3年(1928)、佐保神社(加東市社)の秋祭りの案内状が当時の区長雑書綴に綴じられています。例祭は10月15,16日の2日と決まっていました。現在は体育の日の前の連休となっています。 佐保神社社務所から区長宛てに例祭への案内と人足要請が…
もうすぐ新年度。桜満開の下、ぴかぴかの新入生が小学校の校門をくぐります。 昭和3年(1928)の2月、4月から社小学校(現加東市市立社小学校)へ入学する子供の身体検査、就学前の身体検査の案内通知が社町長から区長宛てに出されています。年齢から…
昭和8年(1933)の社町社区(現加東市社)の雑書綴に社町農会が主催する肥料講演会の案内が綴じられています。これは、社町農会の肥料配合所の完成を祝って行われたもので、講師には県肥料主任が招かれています。 社農第一八七号 昭和八年九月二十九日 …
昭和8年(1933)、社町(現加東市)に体育後援会が設立されています。その設立趣意書が当時の区長の雑書綴に綴じられています。発起人には社町青年団の幹部の名が連ねてあり、その中にわが父、藤本豊治の名もありました。 趣意書は哲学的文学的でもあり…
昭和8年(1933)当時の社町社(現加東市社)の雑書綴に、凱旋兵の歓迎会への出席に関する老兵会の通知が綴じられています。年末の29日付で出されており、歓迎会は元旦の10時からになっています。満州事変が起こり、満州国の建国、国際連盟脱退とい…
年度末は人事異動の時期ですが、昭和11年(1936)の社区事務所(現加東市社)の文書綴の中に社土木出張所長の歓送迎会の案内通知が綴じられています。 会場は元加東郡公会堂で現在の現在の明治館(写真、加東市社)です。発起人の名ををみると、加東(…
昨日のブログで、昭和13年(1938)3月に社小学校(現加東市立社小学校)の本館校舎落成に関する文書を紹介しましたが、もう一通、落成記念の観劇会の券配布に関する通知が当時の社区事務所の文書綴に綴じられていました。 この本館では昭和30年代後…
昭和13年(1938)の3月、今から75年前のことですが、社小学校の校舎改築(本館)が竣工し、その式典の案内が社町長から区長宛てに出されています。当日は高射砲聯隊の展示実演も計画されています。 昭和十三年三月八日 町 長 大 橋 實 次 区 長 殿 …
昭和11年(19369)に溜池の状態調査が行われたことは昨日紹介しました。 社区事務所の報告が同じ「往復文書綴」に綴じられています。 道池は昭和30年代に埋め立てられ、現在は住宅地になっていますし、金屋谷池は社中央公園として整備され市民の憩…
兵庫県、とりわけ北播磨は溜池の多い地域です。加東市だけでも1000を超える溜池がありますが、老朽化などで危険な溜池も少なくありません。大雨や地震などに備えて溜池の調査が行われていますが、溜池の状態についての調査に関する通知が昭和11年当時…
もうすぐ春分の日、彼岸の中日(20日)を迎えますが、今から79年前の昭和9年(1934)の3月21日の春分の日、忠魂碑前で春季招魂祭が行われています。忠魂碑は元加東郡公会堂(現明治館)前にあります。写真は現在の忠魂碑です。 当時の社町社(現…
昭和9年(1934)、「第6回国民融和日」に関する通知が社町長から各区長宛てに出されています。国民融和日は昭和5年に制定されたもので、明治の五箇条の御誓文宣布の日、3月14日を国民融和の日と定めて、部落の改善と社会との融和を目指そうとした…
昭和5年の社町社(現加東市社)の雑書綴に綴じられている三草山溜池(現昭和池)の工事に関する通知の中に現場監督に関するものがあります。次の2通です。 拝啓陳ハ兼テ会同ノ際三草山溜池現場監督員ニ黒石政猪氏ヲ詮衡致居候処其後同氏ヨリ承諾ノ旨回答有…
昭和5年(1930)の社町社区(現加東市社)の雑書綴には、三草山溜池工事に関する文書が綴じられていますが、その一つ、工事人夫に関する通知を紹介します。 昭和五年九月十七日 社 町 長 各区長 殿 過日会同ノ節申上置候三草山溜池工事人夫御申込被下度…
加東市の北部に源平の古戦場で名高い三草山の麓に、昭和のはじめに築かれた人造池、昭和池があります。 大正13年(1924)、この地方は大干ばつに見舞われました。これをきっかけに農業用水の水源を確立する必要性があるとの声が高まり、県営事業として…
昭和13年(1938)、郷土から海軍へ入団する兵の出発見送りに関する通知が当時の社区の軍事往復文書綴の中に綴じられていました。 綴には陸軍関係の通知が多く綴じられていますが、海軍関係の文書は少なく、こうした入団兵の見送りに関する通知を読むと…
昭和13年(1938)の春、米田村(現加東市米田地区)出身兵の遺骨が社町(現加東市社地区)を通過するため、その出迎えに関する通知が社町長から区長や関係者に出されています。 支那事変に出動した郷土兵が戦死し遺骨で郷土へ帰ってくる、これを出迎え…
昭和12年(1937)の8月末に、北支事変(7月に起こった盧溝橋事件から中国北部に戦闘が拡大し、はじめは北支事変とよばれた)の勃発による日支関係、満蒙国境問題等に関する時局講演会と映画会が開催されています。主催は兵庫県、加東郡町村会となっ…
昭和13年(1938)5月、徐州作戦の勝利を祝って、各戸に国旗を掲揚するよう、社町長から各区長へ依頼が行われています。前年の支那事変の勃発から、多くの郷土兵が出動し、戦死戦傷者も出るなか、徐州攻撃の勝利が伝えられ、祝勝を国旗掲揚で示そうと…
昭和13年(1938)の夏、社町長から関係者に遺骨出迎えに関する通知が出されています。支那事変から一年余り。郷土から出発する兵士を見送る一方で、遺骨となって凱旋する兵士を迎える。そうした当時のようすをこの通知から知ることができます。 昭和十…
昭和13年(1938)5月、佐保神社(加東市社)で、徐州作戦での郷土出身兵皇軍将兵の武運長久を祈願する祭典が執り行われています。その通知が当時の社区事務所の軍事関係往復文書綴に綴じられています。麦と兵隊、徐州徐州と人馬は進む・・・の徐州作…
昭和13年(1938)、支那事変が起きて一年余りが経った9月、社町ではその記念の慰問会が出征した軍人家族らを招いて開かれたようです。その招待券、優待券の配布依頼が社町長から区長宛てに出されています。この依頼状は当時の社区事務所の軍事関係往…
昭和12年(1937)の12月12日、南京陥落を祝って社町(現加東市社)でも提灯行列が行われました。また、南京入城当日にあわせて国旗掲揚を行うよう社町長から各区長宛てに依頼状が出されています。 昭和十二年十二月十六日 社町長 大橋実次 各区長 …
昭和13年(1938)5月、前年に起きた支那事変による動員で、郷土から応召された兵士の歓送が佐保神社(加東市社)で行われています。その案内通知が、当時の社区事務所の軍事関係往復文書綴に綴じられていました。応召兵の中には、親戚や町内のよく知…
昭和12年(1937)の年末、日本軍が中国山東省の済南を占領したことを祝い、各戸に国旗を掲揚するよう、当時の社町役場から各区長宛てに通知が出されています。この年の7月に盧溝橋事件が起こり支那事変が勃発しました。日本軍は中国大陸で中国軍と戦…
以前このブログで紹介した加東市下三草の諏訪八幡宮の境内に写真のような石造物があります。やしろ歴史民俗研究会の藤本さん(山国)の研究発表で知ったものですが、表面には「大神宮」と刻まれています。その上部にも字が刻まれていたような感じで、藤本さ…