2013-08-01から1ヶ月間の記事一覧
昭和12年(1937)、国民精神総動員の下、納税精神の強調について、ビラ配布の依頼が社町長から各区長宛てに出されています。納税の完全なる実施の重要性を認識させるための措置と記されています。当時の社区事務所(今の加東市社)の諸通達綴に閉じら…
昭和18年(1943)の年末、社町役場から各区長に宛てて、年末年始の行事等の簡素化に関する通知が出されています。戦局が厳しくなり、物資等の不足などから門松、乄飾りなども簡素なものとするよう通知されています。紙製の門松や乄飾りも18年には製…
昭和19年(1944)、戦局が厳しさを増す中、軍の要請によって桐材の増殖が行われました。このブログでも当時のビラを紹介しましたが、19年4月には桐材の不足からさらに増殖が求める通知が出されています。桐材は木製飛行機の材料になっていました。 …
社区(今の加東市社)の社町役場よりの書類綴(昭和十七年以降)の中に、昭和19年(1944)2月に社町長から区長宛てに協議費及錬成場の特別負担督促状が綴じられています。 社町史によると、昭和16年に、県下の青少年学徒に国防訓練や航空技術の訓練…
昭和19年(1944)の春、社町(今の加東市立社小学校区域)の忠魂碑の前で招魂祭が行われています。加東市社の市街地南端の明治館(元加東郡公会堂)の庭にある忠魂碑についてはこれまで何度もこの歴史ブログで紹介してきましたが、69年前の春、在郷…
昭和12年(1937)、社区事務所(今の加東市社)の諸通達綴の中に軍艦便乗及観覧に関する通知が綴じられています。軍艦は呉鎮守府の潜水艦母艦「長鯨」で、乗艦希望者を募っています。淡路の福良港と高砂港、高砂港と飾磨港間での乗艦だったようです。 …
23日(金)、夕方から加東市内は雷雨に見舞われました。久しぶりの雨でまさに恵みの雨と喜ぶ一方、今日盆踊りを予定していた地区ではせっかくの準備が台無しになってしまいかねず気が気ではないだろうと思いつつ、車を走らせてみました。 加古川の左岸、舟…
昭和9年(1934)の夏、近畿防空演習が行われました。その内容については、この歴史ブログで紹介してきましたが、防空委員に対して当時の社町長だった大橋実次氏から感謝の手紙が出されています。 拝啓 酷暑の折柄御尊堂益々御清祥慶賀の至りに御座候 却…
昭和18年(1943)、社町(現加東市の社地域)の12月常会徹底事項のあとに綴じられている「隣組オ知ラセ」のつづきを掲載します。 お年寄りから薪を厚めに山に行ったという話はよく聞きました。また、木炭バスが走って、坂道にさしかかると乗客が降り…
昭和18年(1943)、社町(現加東市の社地域)の常会協議事項綴の中に12月の徹底事項が綴じられており、そのあとに「隣組オ知ラセ」が綴じられていました。4項目ありますが、2回に分けて紹介します。 隣組オ知ラセ 一、神宮大麻ハ天照大神ノ大御霊…
18日(日)夜、加東市山国の観音堂の前の広場でで盆踊り、花火大会が行われました。 毎年8月18日に行われる山国地区の初盆供養の伝統行事で、今年も盛大に開催されました。近年は、近隣からも踊りと花火を楽しみに来られる人も多くなり、地区役員をはじ…
昭和6年(1931)、社町長から社区長に宛てて、現役兵入営の奉告祭と入営式の案内が出されています。社町(今の加東市の社地域、社小学校区域)から12名の兵が入営しています。 昭和六年一月二日 社 町 長 社区長 殿 現役兵入営ニ付キ奉告祭及び入営式…
昭和6年(1931)の社町社(現在の加東市社)の区長雑書綴に社小学校の先生の歓送迎会開催の案内が綴じられています。主唱者の石井一太郎氏は当時の社町長です。 拝啓陽春ノ候益々御健勝ノ段慶賀ノ至リニ奉存候 陳ハ前社小学校長田中正一氏前社農業補習…
16日(金)の夜、加東市の旧東条町の黒谷地区の若宮八幡神社の境内で夏祭りが開かれました。地区の老若男女はもちろん、他地区からの踊り手さんや今年で11年目となる交流で大阪の若者らも参加して、踊りや余興のビンゴゲームが行われました。地区の方に…
8月15日(木)早朝、いつものようにウォーキングで社の市街地を歩いて、明治館の広場にある忠魂碑に参りました。 昨日のブログで60年前の昭和28年(1953)3月の写真を紹介しましたが、60年後の今の忠魂碑が今日アップしている写真です。松の幹…
加東市社の市街地の南端に明治館があります。明治館は旧加東郡公会堂として明治45年に建てられ、加東郡(現加東市、小野市域)の政治、文化の中心として百年余りの歴史を刻んできました。その明治館の広場の一角に社町(旧社町、今の社小学校区)の忠魂碑…
昨日に続いて、昭和19年(1944)3月、戦局が厳しさを増す中、敵機の空襲に備え防空体制の強化に関する社町(現加東市社地域)警防団の通知を紹介します。第三番目に挙げられているのは流言蜚語の絶滅です。どのような内容の流言か分かりませんが、戦…
昭和19年(1944)3月、戦局が厳しさを増す中、敵機の空襲に備え防空体制の強化が社町(現加東市社地域)の常会で挙げられています。燈火管制の徹底強化、火災予防、特に市街地において防火訓練の徹底などが通知されています。 警防団本部長 合田常蔵 …
昭和15年12月から18年3月までの社町社区(現加東市社)の配給に関する文書類を綴じたものの中に、昭和16年(1941)の8月、干麺とお盆の仏事用の米と糠の配給に関する通知がありました。 昭和十六年八月五日 社町長 合田常蔵 各区長殿 家庭用干…
昭和19年(1944)5月、社町(現加東市の社地域)5月常会で工場給食の改善の件が提出されています。重労働に携わる者に多くの食糧を配分しようとするもので、戦局が厳しくなるなか、食糧の配分も一層のきびしさが増していたことが分かります。 工場給…
昨日に続き、昭和19年(1944)の12月の社町常会の徹底事項を紹介します。『一億の憤激を』で始まるスローガンは生活、貯蓄にも呼びかけられています。 ニ、『一億の憤激を決戦生活に』 一億戦友愛で結び合ひ道義心を高め創意工夫を生かして物の消費…
一日空きましたが、昭和19年(1944)、社町12月常会の徹底事項のつづきを紹介します。「一億の憤激を」で始まるスローガンで、軍需生産、食糧増産、国土防衛に邁進しようと呼びかけています。 イ『一億の憤激を軍需生産に』 必死必中の体当りに応へ…
昭和17年から19年にかけての社町常会協議事項綴の中に、昭和19年12月の常会徹底事項が綴じられています。その冒頭の文を掲載します。「一億の憤激で勝ち抜こう」のスローガンにすべてが表されている感じがします。 十二月常会徹底事項 『一億の憤激…
昭和17年(1943)、社町(現加東市)で家庭防空に関する講演会が開催されています。今なら「家庭防災」というところでしょうが、戦時下の当時は、防空訓練が行われていました。以下は開催通知です。 昭和十七年七月五日 社町長 合田常蔵 各区長及婦人…
昭和20年(1945)、戦局が厳しさを増す中、船員の動員に関する通知が社町長から区長に出されています。船員の資格等を有する者の申告について周知させるとともに報告をするようにという内容です。 昭和二十年四月七日 社 町 長 各区長殿 船員動員令ニ…
昭和18年(1943)、戦争が長引き、郷土から多くの兵士が出征していくなか、応召兵の後顧の憂い除去、入営の歓送などについて記した文書が当時の区長の文書綴に綴じられています。発出者も宛名もありませんが、3月8日付の別の文書に続いて綴じてあり…
昭和16年(1941)、米英との開戦の5ヶ月前の7月22日の日付で、社町長から各区長に宛ててタオル、軍手、紺木綿の配給に関する通知が出されています。 配給に関しては、この歴史ブログで何度も紹介してきましたが、長引く戦争下、物資不足は次第に厳…
昭和19年(1944)7月、本土への空襲に対して、社町(現加東市社地域)では防空警報下の服装や燈火管制の徹底を通知しています。 男は巻脚絆、女はモンペを着用すること。また、警報発令時に魚釣りをするなどもってのほか、という事例を挙げて注意をし…