2016-01-01から1年間の記事一覧
この写真は、昭和44年(1969)の秋に撮影された社町社(現加東市社)の空中写真の一部です(上が北)。 場所は、今の社中央公園辺りで、中央の池が金屋谷池です。まだ公園、ステラパークもなく、中央図書館も、社交番も、そして学園道路も昔のままで、…
この写真は昭和30年代後半の頃の闘龍灘の写真です。アルバムの中の一枚ですが、滝をを渡る橋が鉄製です。 背景には、今の闘龍スクウェアや料理旅館の建物、阿江与助像の台座(像はない)、水神社、さらに五峰山も写っています。手前の橋台のところにいるの…
今日も昭和50年代はじめ頃のものと思われる写真を紹介します。広々とした風景ですが、その広い空には雲が垂れ、手前には冬の枯れ草色の田圃が広がり、なんだか殺風景な風景です。写っている建物は県立社高校の校舎と体育館です。そして、左の白い建物は県…
今日も昭和50年代はじめの頃の社市街地(加東市社)の風景を紹介します。撮影場所は金屋谷池の堤です。上の写真は堤から北西を、下の写真は南西を望んだ写真で、一応パノラマ写真のつもりです。 現在は社中央公園になっていますが、当時は池の西側は田圃が…
写真は、昭和50年代はじめ頃の社町役場を望んだ風景です。手前の池は金屋谷池です。まだ図書館や社中央公園が整備されていない頃のもので池と田圃が広がっていました。 40年ほど前と今の風景を比べてみると、この辺りの風景は大きく変わっています。今は…
この写真は昭和50年代前半の佐保神社の風景です。中央の瑞神門は改修される前のもので、現在の姿と比べると屋根が丸みを帯びている感じがします。 また、現在は門前の写真左手前に公衆トイレが建てられ、この位置からの写真を撮ることができません。何か広…
社町社区(現加東市社)の大正15年区長雑書綴の中に、小さな一枚の券がはさんでありました。昭和2年(1927)の年初の文書と一緒にあったもので、当時のものと思われます。 「輝く健康博覧会」の特別会員券で、「一葉一名限」、「本券持参者ニ限リ会費…
大正14年(1925)年の社町消防組第一部の決算報告が当時の区長雑書綴に綴じられています。消防組は、現在の加東市消防団社分団に承け継がれています。父も、私も消防団員として活動しました。地域の安全は地域で守る。その最前線にあるのが消防団です…
大正14年(1925)、加東郡仏心協会の部落講話の実施について、各区長への協力依頼の文書が社町社区(現在の加東市社)の区長雑書綴に綴じられています。この文書は以前に紹介しましたが、今日は、地区割りならびに受持講師について紹介します。 加東郡…
昭和2年(1927)、社町(旧社町、現加東市立社小学校区域)の農会長名で、農会の評議員、総代、農事改良奨励員、穀物検査員、篤農家宛てに農事講演会、懇談会の案内通知が出されています。大正時代、昭和前半は農業が主要産業であり、当時の社区文書綴…
昭和2年(1927)2月、社町長から各区長に対し、社小学校の校舎増改築工事の竣工に関する通知が出されています。 『百年史』によると、完成した新校舎は講堂のようです。私が通った昭和30年代には、2階が講堂になっていて、1階は確か3年生の教室で…
写真は昭和10年代の八志路幼稚園の園舎です。八志路幼稚園は、大正3年(1914)、社町(旧社町)有志が御大典記念事業として創立し、大正7年にこの写真にある園舎が建築されています。清水寺が経営し、昭和53年まで続いた私立幼稚園です。わが家の…
大正13年(1924)の加東郡社町社の区長雑書綴に、社市街の田町通りに新設される食料品市場関係の書類が綴じられています。その中に設置場所を示す地図があり、当時の社市街のようすを知ることができます。 新市場の設置予定地は、田町通りの中田町(な…
加東市家原の観音寺にある赤穂義士の墓所は、中央に浅野内匠頭長矩はじめ浅野家四代の大きな墓碑があり、その手前の両脇に大石内蔵助と主税父子が控え、それを義士がぐるりと取り巻く形で配置されています。 単なる石碑、墓碑ではなく、その墓碑を通して主君…
加東市の文化伝統や歴史、自然などのよさを伝えるマスコットキャラクター、加東伝の助くん。さまざまな催しに登場する人気者ですが、出番前の控室で一休みしている様子をそっと撮りました。三頭身ですが、座ると頭と下半身だけになってしまいます。何をして…
14日(水)、昨日の雨は上がり、変わって冷たい風が吹くなか、加東市家原の観音寺では加東市赤穂義士祭が行われました。 境内では義士の墓所を訪れる人や福引きを楽しむ人で賑わいました。また、お参りを終えた人々が地元家原地区の皆さんによる甘酒の接待…
14日(水)、加東市家原の観音寺で加東市赤穂義士祭が行われます。今から312年前の元禄15年(1702)、赤穂四十七義士が吉良邸に討ち入り主君の仇を討ち、翌年切腹し、主君浅野内匠頭長矩の墓がある泉岳寺に葬られました。その150回忌を前に、…
14日(水)は赤穂義士ゆかりの各地で行事などが行われます。加東市家原の観音寺では加東市赤穂義士祭が行われ、境内になる四十七義士の墓所には多くの人が訪れ線香を手向けて義士の忠義を偲びます。 写真は市内の保育園児がお参りしている昨年の義士祭の一…
来年小学校に上がる孫2人が昨夜から来ています。今日11日(日)は大きな会で花束贈呈(相手は私と妻)という大役があるからです。その大役も無事終えた夕方、庭の柿の木に登らせてみようと誘ったところ、はじめは怖がっていたもののそのうちこつをつかん…
大正13年(1924)社税務署庁舎の新築落成、移庁を祝う行事が町をあげて行われています。打ち上げ花火や屋台太鼓、通りのモール飾りなど賑やかに新築を祝っています。 明治26年、持寶院の隣にあった一条院(廃寺)に置かれた社税務署でしたが、老朽化…
昭和2年(1927)の1月、社区(現在の加東市社)ではカラクニ谷溜池について地主総会の開催の案内が出されています。 カラクニ谷溜池とは現在の昭和池(加東市上三草)のことで、大正13年の旱魃をきっかけとして、水源確保のために三草山麓に巨大な溜…
今からちょうど90年前の大正15年12月9日、加東郡社町社(現加東市社)の評議員会参与会の協議事項の項目を記したメモが当時の「雑書綴」に綴じられています。 その項目を見ると、女学校負担金、新池埋立、病院設置、カラクニ谷溜池の件などが挙げられ…
もうすぐ14日、赤穂義士討ち入りの日です。加東市では、家原観音寺で赤穂義士祭が行われます。今日は、観音寺の四十七義士の墓所にある義士の墓碑を紹介します。 14日には観音寺で義士追善法要が営まれます。市内各寺院の僧侶が本堂で経をあげ、そのあと…
赤穂四十七義士の墓所がある寺として知られる観音寺は、加東市家原にあります。県道(旧国道175号)と市道社環状線が交わる赤岸交差点のそばです。この「赤岸」という地名は「赤穂義士」が訛ったものと言われています。 観音寺の寺号は「大悲山観音寺」と…
加東市赤穂義士祭が近づいています。今日は家原浅野氏と縁の深い善龍院を紹介します。 赤穂四十七義士の墓所がある赤岸の観音寺(加東市家原)から南へ100メートルほどの社市街地に善龍院があります。 このブログでよく紹介する持寶院とともに涌羅野山慈…
加東市上三草の国道372号を走っていると、「東経135度西へ150M」と書かれた標柱が立っています。その隣に立っている塔の上には時計があり、時刻を知らせています。 東経135度の子午線は日本標準時。明石は子午線のまちとして知られていますが、…
新聞に刃傷松の廊下で傷つけられた吉良上野介に関する史料が見つかったとの記事が出ていました。東本願寺に所蔵されているもので、吉良の傷は浅く、食事も普段通りといったことが記されているというものでした。 毎年12月14日が近づくと、赤穂義士に関す…
加東市社の市街地にある持寶院や善龍院、佐保神社、明治館は、加古川の河岸段丘の中位段丘面の西端に立地しています。ここから西を望むと、低位段丘面である広い平地が広がっており、その向こうに加古川が流れ、さらに西には青野原の大地が地平線となって、…
大正14年(1925)11月、社町社(旧社町、現加東市社)の評議員会の協議事項が当時の文書綴に綴じられています。 項目だけですが、当時、社区でどのような事柄が課題となっていたのかを知ることができます。今も社にある上組と下組の太鼓倉の合併や墓…
大正14年(1924)、元加東郡公会堂で農事改良奨励員会が開催されるとの案内が当時の区長文書綴に綴じられています。 社町長から区長と農事改良奨励委員宛てに出されており、主催は加東郡と書き込まれています。当時の区長雑書綴には農事に関する文書が…