2010-12-01から1ヶ月間の記事一覧
この写真は、加東市山国にある兵庫教育大学附属中学校の中庭の一角に置かれている旧校名の銘板です。 兵庫教育大学学校教育学部附属中学校、これが旧校名です。全部で17文字あり、書類に学校名を書くときに欄をはみ出しそうで困ったことも少なくありません…
佐保神社(加東市社)の冬景色は葉を落とした大けやきの太い幹と枝、そして空に向かって血管のように広がる枝が印象的です。大晦日、元旦の初詣、社えびすとこれから多くの参詣の人々で賑わいますが、その佐保神社に新しい施設ができ、ちょっと風景が変わり…
昨日、国道372号社バイパス田中工区の開通し、旧175号との交叉点に設けられたポケットパークに加東市のゆるキャラ「加東伝の助」の大きな絵が描かれていることを紹介しました。伝の助くんは今や加東市のアイドルとして市民に親しまれ、さまざまなイベ…
24日(金)、加東市松尾の国道372号線社バイパス交差点で開通式が行われました。372号線のバイパス工事のうち、旧国道175号線と交わる松尾交叉点から現国道175号線までの田中工区間が完成し、これによって社バイパスの全線が開通しました。ま…
23日(木)天皇誕生日の昼前、加東市社の銀座通りを車で走っていると、舗装し直され、白線も美しい道路と街頭に掲げられた日の丸の小旗がまぶしく光っていました。 社町時代、祝日には国旗を揚げようと町ぐるみの取り組みが行われていましたが、現在も社の…
加東市の社庁舎の西側を走る道路、姉妹都市の名を冠してオリンピア通りと名付けられています。ステラパーク、中央図書館、体育館、JAみのり本店、武道館などが立ち並ぶ加東市の中心部です。 台地の西端に位置するため、眺望は開けていて、見上げる空も広大…
加東市家原赤岸の観音寺境内にある赤穂義士の菩提所には四十七義士の墓碑が主君を取り巻くようにコの字に並んでいます。菩提所の入口右手前には寺坂吉右衛門ら3人の墓碑があり、折れて南側の列の一番最初にあるが、四十七義士の参謀として知られる吉田忠左…
一昨日のこのブログで、加東市家原の観音寺境内にある赤穂義士菩提所の墓碑配置図を紹介しました。中央に浅野内匠頭長矩公、その脇に大石内蔵助義雄、主税の父子、それを取り囲む義士の墓碑が並んでいます。 写真は堀部安兵衛の墓碑(3基のうち中央)ですが…
義士祭に関係する話題を紹介し続けていますが、今日は善龍院を紹介します。 観音寺(加東市家原)境内の四十七義士の墓碑を建立するために勧進(寄付)を募ったのは善龍院の僧明範でした。 善龍院は赤穂浅野家の分家、家原浅野氏の3代、浅野長時が家原村に…
観音寺(加東市家原の赤岸)の境内にある赤穂義士菩提所には、浅野内匠頭長矩公、大石内蔵助、主税父子、そして義士の墓碑が建っています。 菩提所は門をくぐり、境内に入って正面の本堂の脇を左手奥に入ったところにあります。入口手前に墓碑の配置図(写真…
赤穂義士の寺として知られる観音寺(加東市家原)境内の四十七士の菩提所の入口脇に大きな石碑があります。近寄ってその表を見ると、漢字がびっしりと刻まれています。これが「薦誠碑」です。 この碑文は、弘化4年(1858)に観音寺に150回忌に合わせ…
義士祭にちなんで加東市家原の赤穂義士の寺、観音寺を紹介してきましたが、この観音寺は「赤岸の観音寺」と呼ばれているように、地名に「赤岸」(あかぎし)という名がついています。 写真の通り、旧明舞国道175号線と社環状線が交差する社市街地の北端の…
赤穂義士の菩提所がある観音寺(加東市家原の赤岸)の境内、本堂から菩提所へと向かう通路の右手に義士を称える歌碑があります。その隣に石塔があり、台石に「戦勝紀念塔」と刻まれていました。日清か、日露かと思いながら建立年を見てみると、明治三十八年…
14日(火)、義士祭当日、朝の雨は上がり、冬の光がふりそそぐ好天になりました。寒風とちらつく小雪が定番の義士祭ですが、今日ばかりは暖かくて、観音寺境内のドラム缶のたき火が熱すぎる感じさえしました。 さて、観音寺の赤穂義士の菩提所には朝からか…
12月14日、今日はいよいよ義士祭というのに、今、外は雨が降っています。 もう40年余り前のことになりますが、社中学校時代、加東郡の中学校駅伝大会に出場しました。江戸城松の廊下の刃傷事件を知らせる早籠にちなんで駅伝大会が行われたと聞いていま…
早朝、観音寺を訪れました。14日の義士祭を前に境内はきれいに掃除され、赤穂義士の菩提所も法要を待つばかりとなっていました。 一昨日この歴史ブログで紹介した昭和10年代の写真と同じアングルで写真を撮りました。塀の内側は変わりませんが、塀の向こ…
加東市義士祭は、赤穂義士ゆかりの地、加東市において行われる伝統行事です。そもそも加東市と赤穂義士との関わりは、播州赤穂藩の領地がこの加東市にあったということに始まります。旧加東郡(現加東市、小野市域)内に24か村、8200石余が赤穂藩領だ…
この写真は観音寺にある赤穂義士の墓所ですが、おそらく昭和10年代のものだと思われます。浅野内匠頭長矩の墓碑と大石父子の墓碑を囲むように義士の墓碑が並んでいます。その風景は今も変わらないのですが、塀の向こうに見える風景が今とはずいぶん違って…
昨日は義士祭の始まりを紹介しましたが、昭和50年代半ば頃、観音寺住職の尼僧から聞かせてもらった話を紹介します。 この観音寺は江戸城松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩が最後に建立した寺で長矩の思いが強かったといいます。また、夫人の瑶泉院の持…
加東市赤岸(家原)の観音寺に赤穂四十七義士の墓(墓碑)があり、毎年12月14日には、観音寺を中心に加東市赤穂義士祭が開催されます。 忠臣蔵は日本人の魂に深く刻まれた国民的歴史物語といってもよいと思いますが、播州赤穂はその舞台として有名ですし…
社の商店街に「義士祭」と染められた幟が立てられています。加東市では12月14日、赤穂義士討ち入りの日にちなんで、加東市家原赤岸の観音寺(写真)での法要をはじめまざまな義士祭の行事が行われます。 義士祭のスケジュールを紹介します。 8:30~ …
昨日紹介したのは、加東市立社保育園から北東の五峰山を遠望した風景でした。今日は同じ場所から三草山(423メートル)を遠望した写真を紹介します。 左手前の丸屋根は社保育園の園舎、その向こうの建物が市立武道館、その遙か向こうに見えるのが三草山で…
加東市立社保育園は嬉野台地の西端の社市街地を見下ろす高台にあります。国道372号がすぐ下を走っており、市立武道館やJAみのり、市体育館などが隣接しています。 この辺りは、源平合戦の頃、一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山合戦に敗れて敗走する平…
昭和28年(1953)、私が生まれた年です。この年の4月5日は日曜日。社(現加東市社)では、社祭が行われました。写真は昭和26年の社祭の一こまです。 記録によれば、当日は晴れ。各町(社の各区)毎の催し物をしていたようですが、一区は演芸会、二…
この写真には、かつて社(加東市社)にあった風呂屋の煙突が写っている一枚です。庭の向こうに煙突が、その右の屋根が風呂屋、左は民家です。手前の庭に移っているのはシャツ姿の父です。 煙突のある風景にこだわるのは、わが家の裏の風景にはこの煙突が必ず…
この写真は昭和30年頃の写真だと思います。今から55年前、昭和の合併で新社町が誕生した年ですが、その当時の社(現加東市社)の風景が写っています。 それは二人の老人の後ろ遠くに立っている煙突です。社の田町通りから学校道に入って役場の南隣りにあ…
この写真は昭和32年頃のものだと思います。スクーターと二人の子ども。そして後ろには八志路幼稚園の園舎が見えています。 場所は旧社町役場の東隣で、現在の加東市社の市街地にある関西電力社営業所の東辺りです。当時は田圃がありましたが、今では環状線…