2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧
社町社区長「社町雑書綴」(昭和6年4月~)の中に、加東郡真言宗寺院一同名の案内通知が綴じられています。 内容は、昭和6年(1931)12月に、大師殿(現加東市社の持寶院大師殿)に於いて、国威宣揚皇軍健勝大祈祷会を執行するというものです。 昭…
社区長の「雑書綴」(昭和7年~)の中に、昭和8年(1932)に社尋常高等小学校が産業教育の資料とするために、農家戸数や耕作面積などの調査を区長に依頼している文書が綴じられています。 文書には調査結果の数字が手書きで記入されており、社区(現在…
25日、加東市立東条西小学校のオープンスクール(ファミリー参観)が行われました。親子歯磨き教室やAEDを使った救命講習なども行われ、子どもたちも暑さに負けず元気に学習する姿が見られました。 ところで、校門のすぐ脇の庭の植え込みの中に二宮金次…
敗戦後間もない昭和21年(1946)5月25日、社町長から各区長宛に「乳幼児体力検査施行ノ件」の通知が出されています。 この通知はA6判の大きさで、裏紙に印刷されています。その裏紙は「兵役ニ関スル届」の様式で、陸軍防衛召集規則第十一條第二項…
昭和20年(1945)8月30日、勝札当籤金の支払いに関する通知が社町農業会から各部落区長に出されています。8月15日に終戦の玉音放送が行われて2週間余りしか経っていないこの時期、勝札、すなわち今の宝くじのような籤の支払いが行われていたの…
今から64年前の昭和20年(1945)6月、兵庫県下への空襲の罹災者に緊急に慰問品を送るため、区長や婦人会支部長あてに社町長から通知が発せられています(「参考綴 社区」)。 慰問品は草履、梅干となっており、物資不足のなか、これらの慰問品は罹…
この歴史ブログで、加東市立社小学校の校庭の築山にある石の一つが戦前の紀元2600年記念に建立された石碑だったということを紹介しましたが(5月23日、6月9日付)、石の側面に刻まれた字から、やはり当時の青年団の建立だったことを確かめることが…
昭和7年(1932)年9月1日から二泊三日の淡路島一周自転車旅行の日記を昨日に続いて紹介します。一日目は西浦海岸を、そして二日目は伊諾神宮参拝、鳴門観潮をして洲本泊。三日目は岩屋から明石を経て社に帰っています。チェーンが切れたりの事故もあ…
昭和7年(1932)の父の日記の頁をめくっていると、9月1日の頁に「淡路自転車一周旅行第一日」と書いてありました。「へえー、そんな時代にサイクリングやってたのか」と思いながら読んでみると、社(加東市社)から明石(明石市)まで3時間10分で…
「昭和七年四月 雑書綴 社町社区長」に、天理教青年会社支部による「浪曲の夕べ」の案内が綴じられています。当時、天理教社分教会は市街地の中(現在の社一区、社小学校に通じる学校道の西辺り)にありました。その案内状を紹介します。 拝啓 今回左記の如…
昭和5年(1930)1月30日、義士会についての記述が父の日記にありました。1月30日は旧暦12月14日にあたります。この日に討ち入りにちなんで、義士ゆかりの地、社で義士会が開かれたものと思われます。 義士会の為にと在って姫路よ里稲垣少将の…
「昭和七年四月 雑書綴 社町社区長」に領収書が綴じられており、その内訳欄に昭和7年(1932)4月9日に開催された在郷軍人会主催の出征軍人家族慰安会のことが記されています。会場は佐保座になっています。 一金 拾五円 此内訳 四月九日ニ佐保座ニ於…
昭和7年(1932)、青年団が町の高齢者を招いて「敬老会」を開催しています。この「敬老会」については、今年の2月9日付のこのブログで案内状を紹介しましたが、その準備についての記述が父の日記にあったのであらためて紹介します。 当時、青年団は令…
5月23日付のこのブログで、加東市立社小学校の築山に置かれている庭石が紀元2600年記念の碑であったということを紹介しましたが、その記念碑を囲んで記念撮影をしている当時の青年団と思われる写真を発見したので紹介します。 写真はわが家の古いアル…
「昭和九年四月 社町社区長 雑書綴」の中に当時の社町社青年団が区長に対して財政支援の要請を行っている文書が綴じられています。その支援というのは、国旗掲揚柱の建設に関するもので、社町各部落の支部はすでに掲揚柱をもっているののに社支部のみまだな…
昭和6年(1931)の父の日記を読んでいると、2月23日の見出し欄に「社青年消防団 発会式並出初式」とありました。「青年消防団」という名称は初めて目にしたので、内容を読んでみました。次の通りです。 二月二十三日 今日は社青年消防団の発会並に出…
昭和7年(1932)、山氏神社(加東市社)の社殿落成遷座式に関して、社区の評議員会で屋台の練り出しなどについて協議されています。記録のうち、太鼓屋台の練り出しに関する箇所を紹介します。写真は山氏神社の社殿です。社の商店街から参道を少し東に…
加東市のほぼ中央、嬉野台地の田圃でもいよいよ田植えが始まりました。田植え前には用水路の掃除、畦の草刈りが行われ、美しい田園風景が現れます。そんな景色を見ながら車を走らせていると、嬉野南のバス停脇のいつも見ている道標のすぐそばに、石柱が横た…
昭和7年(1932)2月28日、青年団員が情熱を傾けた令旨塔の建設が完了し除幕式の日を迎えました。父の日記には、その昂揚した精神からほとばしる言葉が記されています。 ●昭和7年 ○一月十四日 ~前略~ 石屋が寒いのに子供が見に来て仕方がないので…
今日も昨日に続いて、令旨塔建設に向けた当時の青年団の取り組みを昭和6年(1931)晩秋から翌昭和7年のはじめにかけての日記から拾って紹介します。令旨塔の建設もほぼ完了し、白川大将の揮毫や令旨文や奉仕者の銅板のことなども書き込まれています。…
昨日に続いて、令旨塔建設への昭和6年(1931)後半の取り組みを日記から見てみます。写真は令旨塔です。 ●昭和6年 ○七月二十二日 ~前略~ 令旨塔の建設は馬鹿に近頃になってから進行した。九分通り迄出来るのだが人出の少ない事が植木屋を数多く使っ…
昨日に続いて、昭和7年(1932)年に社小学校に建設され、戦後取り除かれた「令旨塔」の建設までの経緯を当時青年団員として熱い思いで関わった父の日記から記述を抜き出してみたいと思います。 ●昭和6年 ○三月十二日 令旨塔 題字返信有 ※見出し欄にこ…