2009-11-01から1ヶ月間の記事一覧
12月14日は赤穂義士の討ち入りの日。毎年この日が近づくと赤穂義士にちなむテレビ番組や各地の行事などが話題になります。 ところで、赤穂の花岳寺、東京高輪の泉岳寺の四十七士の墓は全国的に有名ですが、わが加東市の観音寺にも四十七士の墓標があるこ…
社区事務所の「諸通達綴」に昭和14年(1939)2月に開かれた「防空展覧会」の小さなビラが綴じられていました。 支那事変勃発から3年目を迎えるなかで、こうした軍事に関する講演会や展覧会、さらに訓練などの通知が増えています。このビラの次には「…
昭和14年(1939)1月の日付、大阪税務監督局発行で、社税務署の大きな印が押された「納税報国に就て」と題したビラが社区事務所の「諸通達綴」に綴じられています。 日の丸の赤が鮮やかに印刷されたビラには、国家非常時における国民の納税義務の遂行…
昭和13年(1938)の年末、支那事変勃発以降大陸での戦闘が続き、国内では年賀状の自粛が叫ばれていましたが、そうした状況のなか、戦地の兵士に対しては年賀状を送ろうという呼びかけが行われていました。 今日紹介するのは、社区事務所の諸通達綴に綴…
昭和14年(1939)の元旦の奉祝儀式について、社町長から各区長に対して通知が発せられています。 どの地区においても神社公民館などに全員が集まり、祝賀式を行うと共に「国民奉祝の時間」を設けて全国民が一斉に宮城(皇居)遙拝を行うことになってい…
昭和13年(1938)の社区事務所の「諸通達綴」の中に、大阪税務監督局の納税に関するビラが綴じられています。戦前の帝国憲法下、国民の三大義務は教育、兵役、そして納税の義務でした。その納税義務を果たすことで国に尽くそうと呼びかけています。写…
昭和13年(1938)の8月の末に、9月1日の関東大震災記念日の取り組みについての通知が社町長から各区長へ出されています。 大正12年(1923)9月1日、関東地方南部を襲った大地震はM7.9、死者行方不明約10万人という大きな被害をもたら…
写真の筒状の紙袋は何でしょうか。これもここ2,3日続けて紹介している品と一緒に旧家の蔵から出てきたものの一つです。 袋に印刷された文字を読んでみると、「陸軍蚊追粉」と書いてあります。紙袋の中には粉が入っていたんです。印刷されている内容を紹介…
今日紹介するのは昭和16年(1941)に発行された「愛国足袋運動靴用布型」です(写真)。足袋と靴の裁縫用の布型が綴じられているものです。 発行は昭和16年2月15日、発行所は東京栄養食糧研究所の家政経済技藝部となっています。真珠湾攻撃により…
昨日は「愛国婦人会」のタスキを紹介しましたが、同じ入れ物に入っていたのが写真のトイレットペーパーです。驚きました。未使用のもので、仕様には次のように書かれています。一部が破損しており、読み取れる部分は次のとおりです。 機械漉塵紙類 五號品 ト…
写真は愛国婦人会のタスキです。加東市社の旧家で見つかったもので、この歴史ブログで郷土出身兵士の遺骨凱旋の話題がでていたので、ということで持ち込んでこられました。 幅7.5㎝、長さ54㎝(半分)で、紫地に白字で愛国婦人会と抜かれています。 愛…
社区事務所の「軍事関係往復文書綴」(昭和12~14年)には、これまで紹介してきた郷土出身兵士の出征、凱旋、祈願など支那事変勃発以降の動向を示す文書が多く綴られています。 その中に、昭和12年(1937)の年末に郷土出身兵士への慰問袋の贈呈に…
戦死した郷土出身兵士の町葬について連続で資料を紹介していますが、今日は参列寺院について紹介します。旧社町の寺院のみならず、滝野町、福田村、中東条村の寺院も参列しています。 写真の図は、遺家から葬場の社小学校までの地図です。山国から社へ、本町…
今日は町葬執行計画案の「別紙三」に示された、葬列の順序を紹介します。 別紙三 葬家ヨリ葬場ニ到ル葬列順序 1.銘旗 2.弔旗 3.山国区青年支部 4.山国区消防 5.山国在郷軍人 6.儀仗隊(青学) 7.花輪 8.前火(タイマツ) 9.燈籠 10.四本…
戦死して遺骨で凱旋した郷土兵士の町葬はどのような式順で行われたのでしょうか。町葬執行計画(案)の別紙に示されている町葬の次第を紹介します。 別紙 一 故 陸軍歩兵上等兵 宮野幸重君 町葬儀 式順 一、一同着席(午後一時号砲合図) ラッパ(気ヲ付ケ)…
出張等でしばらく投稿できませんでしたが、郷土出身兵士の戦死通報から遺骨凱旋、町葬へと続く、一連の動きを当時の文書をもとに紹介してきています。 今日は葬儀委員名簿を紹介します。町長以下、各種団体長、町会議員、区長、学校長、役場吏員、農会職員な…
昨日に続いて、町葬執行計画を掲載します。こうして執行計画をみると、町挙げての大がかりな葬儀として執り行われたことが分かります。 (きのうに続いて) 一二、会場内諸要員 会場取締 場内整理 分会員 名 長一名ヲ附ス 場外 〃 消防手 名 小頭ヲ長トシ一…
町葬はどのように行われたのでしょうか。町葬執行に関する通知に添付されている計画案には、町葬執行について詳細な計画が書かれています。全部で21項目ありますが、2回に分けて紹介します。 町葬執行計画案 一、葬儀委員 委員長 町長 委員 町会議員、区…
通夜に続いて町葬が執り行われることになりました。町長から関係者に町葬執行の件について通知が出されています。 戦死からほぼ一ヶ月が過ぎた12月10日、社小学校の校庭で執行されることになった町葬の通知を紹介します。 昭和十二年十二月六日 社町長 …
名誉の戦傷死の通牒、遺骨出迎え、町葬執行協議と続き、遺家では通夜が行われる段階になり、その参拝について通知が出されています。 戦傷死を遂られたのが11月8日、戦傷死者通牒が出されたのが11月19日、遺骨出迎えに関する通知がだされたのが11月…
昨日は町葬執行についての協議会開催の通知文を紹介しましたが、今日は、前後しますが、遺骨出迎えについての通知文を紹介します。遺骨凱旋出迎えの通知の前段階の通知が出されていたということです。 拝啓 時下寒冷ノ侯御貴職愈々御清適奉賀上候 陳者当町山…
遺骨凱旋に続いて、町葬の実施についての通知が出されています。昨日は遺骨凱旋が12月2日に決まったという通知を紹介しましたが、遺骨出迎えに続いて、町葬を執行することについて、関係者の協議が行われることになり、その協議会の開催通知が出されてい…
昨日のつづき- 名誉の戦傷死を遂げた郷土兵士の遺骨凱旋の社駅到着時刻が決まり、出迎えの要領が通知されました。通知には遺骨出迎えの各団体配置図が添付されています。社駅からふるさとの村までの沿道に各種団体が整列して出迎えたのです。 通知は次の通…
郷土兵士の戦傷死の通報があったのち、10日ほど経って、遺骨出迎の通知が出されています。社駅での出迎えに関する第一報ですが、時刻が分かっていない段階での通知になっています。 昭和十二年十一月三十日 社 町 長 大 橋 實 次 各区長殿 各学校長殿 各団…
昭和12年(1937)11月、社町長から町会議員、区長、軍事扶助委員宛てに「戦傷死者通報ノ件」が発信されています。この通知から、遺骨出迎え、町葬執行へと続きます。その一連の動きが当時の社区事務所の「軍事関係 往復文書綴」に綴じられています。…