2007-01-01から1年間の記事一覧
加東市河高、加古川に架かる福田橋のすぐ北側に住吉神社があります。 境内はきれいに手入れされ、杉やクスノキの大木が涼しげな木陰をつくってくれています。そして、神社のすぐ東側には加古川がゆったりと流れ、遠くを望むと三草山など中国山地のゆるやかな…
久しぶり(約一ヶ月ぶり)の投稿です。 台風4号の雨で増水した加古川のようすを見ながら、国道372号線に架かる福田橋を西から東岸へ渡るとそこは加東市貝原。橋から20メートルほどのところを右折するとすぐに国道372号のバイパス工事現場があります…
県立社高等学校の生徒通用門から学園道路をはさんで向かい側に兵庫教育大学附属幼稚園や店舗があります。その歩道沿いに一本の石碑が立っています。石碑には「社中学校跡地」と刻まれています。 ここは、社町立社中学校があった場所でした。社中学校は戦後、…
昭和13年(1938)6月2日午後7時付で、社町防護団長(大橋実次町長)名で各区長宛に防空大至急の号外文書が発出されています。その内容を紹介しましょう。 警戒管制発令ノ件 本日只今警戒警報発令サレタルニツキ 同管制ノ一部ヲ施行スルニツキ左記ニ…
昨日に続いて加東市穂積の八幡神社から、境内の一画に立っている石柱を紹介しましょう。 神社境内の一画に石柱が2本立っています。まるでギリシャかペルシャの古代神殿遺跡の写真によくある石柱のようです。途中から折れたように断面が斜めになっています。…
加東市穂積、千鳥川が加古川に合流する地点に近いところに穂積の氏神、八幡神社があります。すぐ裏(北)を中国自動車道が走っており、前面の川と後ろの高速道路によって、周辺と隔絶されたような形になっています。 この八幡神社の境内の一画に一本の道標が…
昭和17年(1942の社町社区配給関係書類綴の一枚(精肉購入券配布の通知)の裏を見ると、翼賛選挙の回覧ビラが印刷されており、通知はビラの裏紙を利用したものでした。 政党が解散され、大政翼賛会が結成されたのは昭和15年(1940)のことでした…
加東市天神、市街の中心の三叉路に一本の大きな道標が立っています。古い家屋が軒を連ねる天神市街の景観にとけ込んでいます。 高さは大人の身長ほどあり、力強い太い字が刻まれています。「右 大坂 兵庫」「左 京 きよ水」と刻まれ、この三叉路が大坂街道と…
今から64年前の昭和20年(1945)6月、大東亜戦争終結の2ヶ月前、社区の常会では次のような事項を徹底するよう決定していました。 六月の徹底事項 一、田植ヲ完全ニヤリ遂ゲヤウ 腹ガ減ツテハ戦ガ出来ズ食糧戦力ノ源泉デアル然モ今年ノ食糧事情ハ国…
昭和3年(1928)2月20日、普通選挙法による初めての総選挙が実施されました。この選挙を前に、社町長から各区長に出された通知を紹介しましょう。 社通一第三五六号 社町長 各区長殿 衆議院議員選挙ニ関スル件 来ル二月二十日ヲ以テ愈々総選挙ヲ執行…
「銃後の便り」の内容紹介も今日で最後になります。国民学校の便りでは、当時校庭にあった八城神社の秋祭が紹介されていて戦時中の学校のようすを知ることができます。5ページの「銃後の便り」にびっしりと書き込まれたふるさとのようすを戦地の兵隊さんは…
「銃後の便り」の記事を連続して紹介しています。今日は「団体の動き」の続きを紹介します。 ●社町壮年団 自一〇・七 至一〇・一二 分団常会六区 社区 山国区 松尾・出水・田中区 鳥居・貝原・野村区 西垂水・窪田・家原区 上中・梶原・喜田区 団ノ幹部ガ夫…
今日は「団体の動き」の欄を紹介します。この欄には、「在郷軍人会」「青年団」「社町壮年団」「社町商工会」の4団体の動向が投稿されています。戦地の兵隊は内地での在郷軍人会や青年団の活動を頼もしく読んだのではないでしょうか。 ●在郷軍人分会 -十月…
昨日に続いて、社町当局の記事を紹介します。金属回収や兵隊の記事などから戦争中の内地の生活のようすが伝わってきます。当時の社町は今の社小学校区を範囲とする地域です。 ●金属回収 一般家庭ノ金属特別回収ハ十二月二日ー五日ノ間ニ行ハレル事ニナリ現在…
引き続いて「銃後の便り」の記事を紹介します。今日は社町当局の投稿記事です。 町ノ近況(前半) ●役場日誌より 一〇・一 本日ヨリ十日間、社町内秋季清潔法ヲ実施ス 三 本日ヨリ六日間、軍人援護強化運動日 四 各戦没者霊前参拝及軍人遺族及家族慰問 五 会…
今日紹介するのは、「銃後の便り」に投稿されている社銃後団の活動報告です。 社区銃後団の活動 本町社区ニハ事変以来軍人援護事業ノ万全ヲ期スベク社区銃後団ヲ組織シ、区長ヲ会長(現宮野太吉氏)トシ、副区長及軍人援護委員之ヲ補佐シ、軍人遺家族ノ援護…
昨日に引き続き、社町銃後奉公会による「銃後の便り」(昭和17年)の記事を紹介します。今日は産業組合からの報告です。戦地の兵隊さんが米や麦の取れ具合いなどの報告を読みながら、内地の刈り取り風景に思いをめぐらせていたのでしょう。 産業組合の概況…
昭和17年に発行された社町銃後奉公会の「銃後の便り 十月」について、去年の9月にこのブログで内容の一部を紹介しました。わら半紙に青インクの謄写版印刷、B4判紙の2つ折り、5ページ仕立ての印刷物です。 内容をもう一度紹介しましょう。 ○感激 会長…
飛行機の潤滑油に 大東亜戦争開戦から1年余り、戦争が長引くなか物資不足が深刻になっていた昭和18年(1943)4月、大政翼賛会兵庫県支部・兵庫県翼賛壮年団の名で「愛国ヒマ献納運動-蓖麻(ヒマ)の作り方-播植強調期間、四月二十日-五月十日」と…
多可郡多可町中区の門前から、「オオサンショウオが出てきた」という知らせが飛び込み、出かけてきました。 西脇市を通って杉原川をさかのぼり、中区をさらに抜け、加美区との境までやってきました。家に着くと、庭に置かれたタライの中にいるではありません…
大東亜戦争が長引き、戦況もきびしくなっていた昭和19年(1944)、3月20日付で社町長から各区長に宛てて、「社町幹部錬成懇談会開催」の通知が出されています。 主催は、兵庫県、加東郡、社町各大政翼賛会支部。錬成会参加対象者は、各部落世話人以…
昭和8年(1933)の秋、陸軍の第四師団の演習に際して、社町(旧)内各部落で引き受ける宿営人員や注意事項を示した文書があります。 第四師団(大阪)の社町宿営人員は、将校113人,下士兵1523人,計1636人、馬412頭となっています。この…
昭和8年-消防組からの請願 昭和8年(1933)、社町消防組第一部の代表者三人の連名で、社区長宛に請願書が提出されています。 請願の中身は、消防器具置場建設、警鐘台移転改築、用水池施設の3件からなっています。その一つの消防用水確保のための用…
この写真は昭和32年(1957)に撮影された社小学校の校舎です。一階は教室、二階が講堂になっていました。 写真は市街地から学校にのびる学校道から撮影されたものですが、今ではこの校舎はなく、植え込みと駐車場になっています。また、手前には環状道…
写真の掛軸には、明治天皇の肖像と日清戦争の開戦の詔書、軍人勅諭が印刷されています。 戦前はこうした掛軸が床の間に掛けられていたのでしょう。そして、戦後60余年間は、おそらく一度も出番がないまま蔵の中でその存在さえ忘れられてしまったのではない…
写真の提灯には鮮やかな赤で「西田町」と日の丸、さらに黒字で「奉祝」と書いてあります。 「西田町」は「にしたまち」と読みます。加東市社の田町通りの西部が西田町で、東に向かって中田町、東田町という町割りになっています。 この提灯がいつ頃のものか…
新緑が目にまぶしい5月5日のこどもの日、加東市畑の朝光寺の境内で鬼追踊が行われました。 踊り手は、翁が1人、鬼が4人。松明や刀、斧などを持った鬼が鐘の拍子で踊ります。踊りは至極単調で、五穀豊穣、疫病退散などの願いが込められているといわれてき…
(続)大師堂造営費勧進寄付簿 加東市社の持寶院大師堂の造営費勧進寄付簿には、大師堂の設計図と解説が掲載されています。今日は設計図(写真)の解説を紹介します。 上図ハ帝国建築界ノ泰斗京都帝国大学教授武田五位置博士ノ設計ニ係ル処堂宇ノ建坪四十六…
大師堂造営費寄付勧進簿 去年の7月11日、12,13日の3回にわたって、このブログで加東市社の持寶院にある大師堂と木像の大師像にまつわるエピソードを紹介しました。私はこのお大師様が大好きで、お堂でそのお顔を拝していると、心がやすまり、ありが…
へんろみちの道標 加東市鳥居の集落の真ん中を東西に走る旧街道を社方面に向かって走り、国道175号を渡ったすぐ左手に一本の道標が立っています。 これは、加東四国八十八ヶ所霊場巡りの道標で、「加東準四国」「へんろみち」と刻んであります。「準」は…