2017-02-01から1ヶ月間の記事一覧
昭和20年(1945)、終戦直後の11月の末、社町社(現加東市社)では組長会が開催されています。当時の社区の「参考綴」に通知が綴じられており、全部で当時あった20組の組長の確認の印が押されています。 敗戦後間もないこの時期、敗戦の前と変わる…
昭和17年(1942)の11月分の精肉配給に関する資料を紹介します。当時の社町社区(現加東市社)の配給関係資料綴に綴じられているもので、社町長から各区長宛ての精肉購入券配布に関する通知です。 この通知とともに各組への購入券配給枚数一覧表が綴…
社町社区(現加東市社)の昭和15年12月から18年3月までの「購入券配給書類」第壹号には、さまざまな物資の配給に関する通知、配給表などの書類が綴じられています。その中に社区の各組毎の家族人員別調査表・年令別調査表が綴じられています。 これら…
戦時中の配給に関する資料を紹介します。昭和17年(1942)、社町長から各区長に宛てて、精肉配給の公平を期すべく販売業者からの要請で各隣保の世帯、人口などを提出するよう通知が出されています。配給は、その基礎を人口や戸数などに置いていたため…
昭和5年(1930)、衛生健康週間講演会の参加促進の通知が社町長から社区長に対して出されています。すでに「宣伝ビラ」が配布されていたようですが、念のために当日に各戸1名ずつ責任出席をふれて回るよう依頼しています。 浪花節や漫才の余興もつけて…
昭和18年(1943)5月、生魚の配給に関する通知が社町役場から社区長に対して出されています。内陸にある社町(旧社町、現加東市)では海でとれた生魚の配給・販売は時間を置く訳にはいかなかったのでしょう。通知には「至急(本日直チニ)」とありま…
写真の2枚の札は、加東四国八十八ヶ所の納め札です。 加東四国霊場とは、四国八十八か所霊場を加東郡内(旧加東郡、現在の加東市と小野市域)に写したもので、大正7年(1918)につくられました。もとは、江戸時代に行われていたようですが、明治維新の…
昨日に続き、戦時中の配給に関する資料を紹介します。昭和18年(1943)の11月分の牛肉配給に関する役場から区長への通知です。 精肉は人口割で各組に割当られています。社区(現加東市社)には21組があり、人口によって数量が記入されました。例え…
久しぶりに戦時下の配給に関する資料を紹介します。昭和18年(1943)の9月、家庭用の石鹸の配給に関する通知が社町役場から各区長に出されています。 石鹸は浴用と洗濯用を人口を基礎に配給。また、乳児用の浴用石鹸、洗濯石鹸の特別配給実施に関する…
もう春がそこまで来ています。昭和6年(1931)の春、社町の忠魂碑前に於いて執り行われる春季招魂祭の案内が当時の区長雑書綴に綴じられています。主催は社町老兵会、在郷軍人会で、春季皇霊祭(現在の春分の日)に行われていました。 忠魂碑は元加東郡…
16日(木)、一日よい天気で、日中は明るい春の光に包まれて暖かくなりました。 朝7時前にやしろ中央公園の金屋谷池の堤に立つと、南東の空が赤みを帯びていました。 昼間、庭の梅が青空をバックに真っ白に光っていました。 そして、夕方、家に帰ろうと外…
大正14年(1925)の9月はじめ、社町の元加東郡公会堂(現在の加東市明治館、写真)に於いて、兵庫県主催の竹林改良講演会が開催されることになり、その通知が社町長から区長へ出されています。講師は京都府の実践家で、講演のあと、社の持寶院の西の…
今から90年あまり前の大正13年(1924)の晩秋、社町(旧社町、現加東市立社小学校区域)の区長会で陸軍の宿営に関することが協議されています。陸軍が機動演習を実施するため、この地方に宿営することになり、その調査や準備を協議したものです。区…
13日(月)、庭のカリンの木の枝に大きなヒヨドリが飛んできてとまりました。さらに別の木に飛び移って周囲をキョロキョロしています。そっと窓に近づいてみると、地面にもう一羽がいました。きっとえさをさがすメスの安全をオスが木の上から見張っている…
2月11日(土)の建国記念の日、大雪の日本海側には申し訳ないような好天の下、加東市河高の八幡神社では厄除け祭りが行われました。 県立播磨中央公園の中にあるこの八幡さんへの通路には早くから消防団員が出て駐車場整理をおこなっていました。毎年、こ…
2月11日は「建国記念の日」です。この日に加東市内では、河高八幡神社の厄除け祭と上久米の東光寺の大日如来祭が行われます。元はこの日に行われていたものではありませんが、現在は2つの祭りが祝日である建国記念の日に行われています。 さて、大日如来…
昨日に続いて、昭和13年(1938)の社町防空計画に掲載されている燈火管制の図のうち、今日は「車輌燈」、自動車前照燈の図を紹介します。 自動車の前照燈も正面の上半分を黒布で覆い、下部は減光するために白布で覆うようになっています。光が上空に漏…
昭和13年(1938)、約80年前の社町(現加東市、社小学校区域)の防空計画書が当時の社区事務所の諸通達綴に綴じられています。 その中に、燈火管制下の屋内の光が外に漏れないようにするための図が示されていました。映画やテレビなどで空襲警報下、…
8日(水)、鳥取県の智頭宿を訪れました。古い宿場町の佇まいを伝える古い建造物が連なっていました。石谷家の豪壮な住宅と庭を見学したあと、町歩きをしましたが、通りに面して、火の見櫓がついた消防団詰所がありました。国の有形登録文化財に指定されて…
昭和19年(1944)9月、大政翼賛会社町支部長から各部落、隣保長に対して、決戦下の入営団(応召)者の歓送を簡素に行うよう徹底することを求めた通知が出されています。 これは当時の社町社区(現加東市社)の区長の雑書綴に綴じられているものです。…
大正14年(1925)8月、社町の区長会で、県営の貯水池(昭和池)の築造や朝鮮水害への義捐金などについて協議が行われています。 これは、社町社区長(現在の加東市社)の雑書綴に綴じられている文書に記されているものです。前年には東播地方が大干ば…
2月1日から3日間、県議会農政環境常任委員会の調査で雪の但馬、丹波地区を訪れました。その行程等はブログ「百聞百見」に報告していますが、その調査先で忠魂碑、斉藤隆夫の書に出会いました。 忠魂碑は豊岡市日高町観音寺地区の公民館前に建てられていま…
この写真は今から40年余り前の昭和40年代末頃に撮影した、播州清水寺にある南朝の忠臣赤松氏範の墓と墓への道に建てられている石柱です。大学生になってすぐの頃、清水寺(加東市平木)を訪れた時に撮したものです。 小学校の5年か6年生の頃、父親に連…