2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧
梅雨空の下、加東市内を走っていると、稲が順調に育ち緑が濃くなっていく水田にシラサギの姿が見えました。シラサギもいろいろ種類があると聞いたことがありますが、緑の中で優雅な姿を見せるシラサギの動きに見とれていました。 加東市立福田小学校の南にあ…
加東市中古瀬の墓地の一角に生垣で囲まれた軍人墓地があります。両側に墓石が並び、正面には忠霊塔と大きな墓石があります。墓石には戒名、官等が刻まれ、側面に戦歴が刻まれていました。 忠霊塔と刻まれた五輪塔には昭和26年建立と刻まれています。昨日紹…
加東市西古瀬の集落の北に毘沙門堂があります。そのお堂の北の墓地の中央、コンクリートで整備された一角の台石の上に大きな石碑が建っていました。両側には、軍人墓が建っています。この石碑は大東亜戦争で戦死された西古瀬出身兵士の尊名を刻んだ殉国英霊…
昭和14年(1939)年、中国での戦闘が長期化していくなか、郷土から応召・入営する兵士を見送っていました。佐保神社(加東市社)で奉告祭を行い、バス、鉄道、自動車などで出発していく兵士を見送りました。 当時の社区(現加東市社)の軍事関係文書綴…
77年前の昭和13年(1838)7月、支那事変が起きてからちょうど1年が経ったころ、郷土から召集されて出発する兵士を見送るべく、その通知が社町長から各区長ら関係者に出されています。 早朝、社駅(現JR社町駅)からの出発には、家族はじめ多くの…
県政資料「ふるさと加東の歴史再発見シリーズ」の第2弾として、「終戦70年-慰霊を考える 加東市内の忠魂碑・慰霊塔」を発刊いたしました(5月)。 シリーズⅠは「東条川疏水ネットワーク博物館関係」で3月に発刊しましたが、今回は終戦70年に当たり、…
昭和13年(1938)1月、佐保神社(加東市社)で郷土出身兵の戦傷平癒祈願祭が行われることになり、その通知が社町長から各区長に出されています。 前年の7月に支那事変が起きて約半年、戦地からは戦死や戦傷の知らせが届き、こうして戦傷平癒祈願が行…
昭和13年(1938)、支那事変の翌年5月、徐州陥落の頃、郷土出身兵の遺骨出迎えの通知が社町長から区長などに出されています。隣の福田村出身兵が播但鉄道(現JR加古川線)の滝野町安取(現加東市河高地区安取)を通過するので多くの出迎えを、とい…
昭和12年(1937)の暮れ、この年の7月に起きた支那事変で出征応召した郷土兵の家族を慰安する会が軍事後援会の主催で行われています。その案内状が当時の社町(現加東市社)の軍事関係綴に綴じられています。 会場は佐保座と記されています。佐保座は…
朝のウォーキングで静かな社(加東市社)の市街地を歩いていると、脇道の向こうに佐保神社の瑞神門と大石燈籠が見えました。商店街から佐保神社の門前に通じる細い道は古い商家の塀のある道です。緩やかに下っており、視界の向こうに門と燈籠が見えます。 さ…
昭和13年(1938)の7月、社町長から関係者に遺骨出迎えに関する通知が出されています。この通知は、社区事務所(現加東市社)の軍事関係往復文書綴に綴じられています。ちょうど支那事変から一年、郷土から出動し、戦死された兵士の遺骨凱旋を迎える…
昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、支那事変(北支事変)が起こりました。出動令が発令され、郷土からも多くの兵が応召され出発していきましたが、それから1年余り経った翌13年9月、郷土に届いた戦死者通報に関す…
昭和13年(1938)6月、佐保神社で郷土出身兵の戦傷平癒祈願祭が行われることになり、その通知が社町長から各区長はじめ関係者に出されています。 支那事変が起きて約1年が、戦地からは戦死や戦傷の知らせが届いていました。この歴史ブログでも8月に…
今年の3月末に東条川疏水に関するこの歴史ブログに投稿してきた記事と議員活動ブログ、そして、県議会での質問などをまとめた小冊子を発刊しました。題して、「県政資料-ふるさと加東の歴史再発見シリーズⅠ 東条川疏水ネットワーク博物館関係」。57ペー…
昭和12年(1937)7月に支那事変が起き、多くの郷土兵が召集されました。その家族を支援することを目的として軍事扶助委員が委嘱され、慰問会などの活動を行いました。昭和12年の秋、その委員会の開催通知が社町長から各委員に出されています。秋の…
昭和13年(1938)8月、前年に起きた支那事変による動員で、郷土から応召された兵士の奉告祭と国威宣揚・皇軍武運長久祈願祭が佐保神社(加東市社)で執り行われています。 その通知が、当時の社区事務所の軍事関係往復文書綴に綴じられています。 昭…
昭和13年(1938)の夏、佐保神社で戦地の郷土出身兵の戦傷平癒の祈願祭が行われることになり、その通知が社町長から各区長に出されています。支那事変が起きて1年が経ち、戦地からは戦死や戦傷の知らせが届いていました。この歴史ブログでも遺骨の凱…
国道372号線の加東市庁舎を北に下った加東市木梨の交差点から県道西脇三田線に通じる直線道路の側面の田圃の法面に大きな幕が張られています。 朝、ウォーキングをしていてちょうど東の地平線に朝日が昇り始めた時にオレンジ色の朝日に映えるその大幕が目…
佐保神社(加東市社)の佐保神社境内の玉垣については何度かこのブログで紹介してきましたが、今日は玉垣に刻まれた店の印を紹介します。 遠く、大阪や京都、神戸、姫路などの住所と商店の名前が刻まれている玉垣が少なくなく、その中には店の印が刻まれてい…
朝のウォーキングコースに明治館があります。明治館は元加東郡公会堂で、加東市社の市街地の南西端にあり、築100余年の堂々たる明治建築です。この明治館の広場に旧社町の忠魂碑がありウォーキングの途中に立ち寄って手を合わせます。 明治館の西側は下を…
8日(月)の朝、佐保神社に参拝すると、境内の稲荷社の鳥居が鮮やかな朱に塗られて輝いていました。 以前、このブログで白木の鳥居が建てられたことを紹介しましたが、今日は、その鳥居が朱に塗られ、屋根には銅板が張られた鳥居の姿を紹介します。鳥居の中…
7日(日)、午前5時頃に家を出て歩き始めました。晴れているので日の出を見ようと社市街を東に向かって歩きました。社小学校から木梨方面へと歩いていくと、一気に視界が広がります。東に三草山、そして、その向こうに清水寺のある御嶽山が望めます。手前…
昭和19年(1944)、戦局は厳しさを増し、銃後の国民生活も食糧・物資不足が続いていました。当時の社町社区(現加東市社)の配給関係の文書綴には日用品や食品などの配給の通知などが綴じられています。 今日はそのうち、酒粕配当に関する通知を紹介し…
4日(木)、梅雨入りした模様という気象台の発表があったばかりですが、今日は一転透明な空気に覆われ、空の青さと山の緑が本当にきれいな好天となりました。 午後遅く、加東市河高に用事があって集落の中を通る旧道を車で走りました。集落を抜け、加古川を…
昭和20年(1945)の1月、社町長から各区長宛てに生松脂(なままつやに)の生産に関する通知が出されています。この通知は社区(現加東市社)の当時の役場からの書類を綴じた文書綴に綴じられていたものです。 戦争末期のこの頃、松根油の生産が行われ…
昭和19年の秋、社町と警防団長から各部落区長にあてて、身許票と待避所の設置に関る通知が出されています。 戦中の映画やテレビドラマなどでも国民服姿に白い名札のように付けられているものが身許票でしょう。また、防空壕など空襲に備えた待避所の設置を…
昭和20年(1945)1月、社町役場、警防団から各区長と警防団幹部に向けて、警報下の高角砲発射に関する通知が出されています。 高角砲とは調べてみると高射砲のことで、陸軍では高射砲、海軍は高角砲と呼んだそうです。飛来する敵機に向けて撃つもので…
今年は終戦70年の節目の年にあたります。この歴史ブログでは、戦前戦中の郷土のようすを当時の文書などを通じて紹介してきましたが、今日は昭和18年(1943)9月24日に行われた秋季招魂祭の案内状を紹介します。 現在も明治館(元加東郡公会堂)前…