2017-03-01から1ヶ月間の記事一覧
3月も末というのに今年は桜がまだ咲きません。しかし、庭のアンズが満開になりました。薄い桃色の花がまっすぐに伸びた枝にまるで人工的にくっつけたように並んで咲いています。 朝からヒヨドリのつがいがやってきてせっせと花を啄んでいます。
加東市社にある善龍院では、来る4月23日(日)に輪番土砂加持法会並びに本堂屋根落慶報告・退山式・晋山式が行われるとのご案内をいただきました。 善龍院は、涌羅野山慈眼寺善龍院の寺号をもつ真言宗のお寺で、赤穂の浅野氏の分家である家原浅野氏の菩提…
古いアルバムに私が社小学校の1年生の時の写真がありました。「1年1組梶原学級」でした。教室に七夕飾りがしてあります。男女別に歌を歌っている場面ですが、人数を確かめてみると、男子27名、女子27名、計54名もいます。この学年は昭和28年、2…
叔父が亡くなり、古いアルバム帳をめくっていると、私が小学生の頃(昭和30年代後半)の墓参りの時の写真がありました。そこには叔父や母、弟の姿が写っており、父が撮ったものでしょう。墓地は社町西垂水(現加東市西垂水)で、今はお堂(薬師堂)も墓地…
昨日のブログで、昭和17年(1942)に行われた社区公会堂(旧加東郡社町社区、現加東市社)の落成式の記念撮影の写真を紹介しました。 今日は、その落成式の式次第、案内状を紹介します。 社区公会堂落成式次第 一、一同着席 一、開会之辞 清 祓 降 神 …
今から75年前の昭和17年(1942)2月6日、社区公会堂の落成式が執り行われています。 社区公会堂は、加東郡社町社区(現加東市社)の公会堂で、その建物は現在もあり、小規模作業所として使われています。私が小さい頃はそろばん塾の教室として使わ…
24日(金)、小、中学校では修業式が行われ、この1年間の学業を終えます。28年度最後の登校見守りの朝を迎えました。 いつも見守りに立つ学校道の交差点に面している家の庭のレンギョウが満開で朝の光にその黄色い花が映えています。 我が家の庭にも春…
昨日に続いて旧いアルバム帳から紹介します。この写真は社小学校の奉安殿の前で、当時の社町青年団の支部長が揃って記念撮影をしたものです。 日付は「昭和十年十二月十四日」、「支部長記念撮影」と写真裏に書き込まれています。奉安殿は昭和10年(193…
古いアルバムの中に登山の記念写真がありました。写真には、「14.7.15」の日付と、「播磨国鎌倉山」の地名、「戊亥会登山記念」と父の他4人の名前が書かれていました。 昭和14年(1939)7月15日、父等4人が鎌倉山に登った時のものであるこ…
昭和28年(1953)の「助役日記」(合併前の旧社町、現加東市立社小学校区)の1月15日の頁には、「成人の日 式典 一時 於小学校講堂」と書き込まれています。この年に成人を迎えた人は現在83、4歳になっておられる。憶えておられるでしょうか。 …
一昨日紹介した昭和28年(1953)の「助役日記」(旧社町)の1月17日の欄に「県知事・嬉野研修所来社 青年の式に参列」と記入されています。 嬉野研修所とは、現在の県立嬉野台生涯教育センターの前身で、戦中に青年学徒錬成場として建設され、戦後…
17日(金)、加古川市立総合体育館(加古川市西神吉町)で開催される第35回全国高校女子ソフトボール選抜大会の開会式に出席するために加東市から加西市を通って加古川市の志方町方面に車を走らせました。教師になりたての頃、加古川市立志方小学校に勤…
昭和28年(1953)の「日記」(助役)が手元にあります。父、藤本豊治が社町(旧社町、現在の加東市立社小学校区域)助役だった時に記入していたものです。 4月5日(日)の頁を見ると、天気は「晴れ」。特別出勤者6名の名前が書かれています。また、…
15日(水)、午後5時30分を過ぎた頃でしょうか。加東市社にある事務所を出ると、それまで降っていた雨も上がり、日が射していました。駐車場へと振り向くと、東の空に虹が出ていました。黒い雨雲をバックに鮮やかな色の虹が大きな半円となって地面から…
加東市社の持寶院にある大師殿は加東四国八十八ヶ所霊場の仕上げの道場として、また、日本一といわれる木像の弘法大師像が安置されていることで知られています。大師殿は大正14年(1925)に建てられましたが、その「造営費寄附勧進簿」に掲載されてい…
3月7日(火)、よく晴れて凛とした朝の空気に包まれながら、朝のウォーキングでお参りした大師殿(加東市社の持寶院)から西を望むと、青野原台地の陸上自衛隊青野原駐屯地の建物が朝の光に白く光って見えました。 加古川の河岸段丘の中位台地面にある加東…
夕方、外に出てみると、東の空低く、民家の屋根の上に黄色く円く光る月が浮かんでいました。満月のようです。昇ったばかりの月は本当に大きく見えます。 8時過ぎに外に出ると、月は夜空に高く光っていました。その光に照らされて、夜の空に飛行機の航跡が白…
昭和5年(1930)、社町消防組の秋季演習の観覧案内が当時の社区長の「雑書綴」に綴じられています。 実施日時は10月12日午前8時、場所は「家原赤岸河原」となっています。社町(旧社町、現在の社小学校区)の北部を流れる加古川の支流、千鳥川の川…
3月に入り、寒暖を繰り返しながら、いよいよ春が近づいていることを感じます。9日の朝、社中央公園のステラパークから金屋谷池の堤へと歩いていると、東の空に朝日がまばゆく光りながら昇ってきました。 円形のステラパークの外縁に立つポールが池の水面に…
資料を整理していると、播州針の元祖、小寺彦兵衛翁の肖像画が掲載されているパンフレットが出てきました。これは、昨年の5月30日に開催された兵庫県釣針協同組合の定時総会に際し、同組合相談役の土肥芳郎氏が提供されたもので、カラー印刷で表紙に彦兵…
8日(水)、朝日が昇りまぶしい光が広がるなか、ウォーキングで大師殿(加東市社、持寶院)にお参りしました。 大師殿の西にあった納骨堂が撤去され、西に広がる田園と青野原台地、中国山地の山々を一望できるようになりました。 大師殿は朝の光に包まれ輝…
7日(火)、兵庫県の地方高齢者大学である、うれしの学園生涯大学(県立嬉野台生涯教育センター)の4年制大学講座と大学院の修了証書授与式が行われ、出席しました。 そこでいただいた大学院講座の活動記録集の中に、「ふるさと再発見」のテーマで地元北播…
今日も昭和20年(1945)の社区(現加東市社)の参考綴に綴じられている当時の勤労動員一覧表を紹介します。 この一覧は3月以降、4月から5月はじめにかけての「嬉野出役」のもので、「第二海軍療品廠工場」と書いてあります。療品廠工場とは、海軍で…
昨日に続いて、昭和20年(1945)の5月から7月にかけての鶉野(現加西市)への勤労動員の一覧表を紹介します。 社区(現加東市社)の20組が5月から7月にかけて約10~20人が割り当てられています。一覧表には、各組の出役の人の名前が小さな字…
昨日に続いて、昭和20年(1945)の8月、終戦直前の鶉野出役の記録を紹介します。これは当時の社区(現加東市社)の「参考綴」に綴じられているもので、社区の20区の組每に8月5日から10日までの間に鶉野(現加西市)に勤労動員に出た人の名や人…
昨日のブログで、昭和20年(1945)8月、終戦直前の勤労動員関係の資料を紹介しましたが、その中に鶉野飛行場(現加西市)への出役の割当表がありました。 今日は、その鶉野出役の昭和20年3月以降の各組(社町社区の20組)別に、日付、出役の氏名…
昭和20年(1945)の終戦直前の8月、本土決戦が叫ばれる中、鶉野飛行場(現加西市)などへの出役(勤労動員)に関する社区(現加東市社)の各組の員数割当表が当時の文書に綴じられています。 鶉野(海軍)は橘部隊、出役は午前7時集合、法華口駅下車…
昭和20年(1945)、終戦約一ヶ月前の7月18日、加東郡社町社区(現加東市社)では会計監査が行われています。その案内通知が区長から立会人に出されていますが、夜は空襲があるので昼間に開催すると書かれています。戦時下の緊迫したようすが伝わっ…
昨日は昭和20年(1945)の11月の社区組長会の開催通知を紹介しましたが、今日は同年10月30日に開かれた組長会の協議事項のメモを紹介します。 終戦から2ヶ月余り。食糧の配給や公会堂の件など、日常の暮らしや町の事務については終戦の前とさほ…