2008-12-01から1ヶ月間の記事一覧
2日間ブログを休んでしまいましたが、昭和7年(1932)の秋の陸軍演習での宿営に関する書類の紹介を続けます。演習に必要な物資の調達や損害が発生した場合の賠償などについての注意などが書かれています。軍隊の演習実施に際して、こうした細かいこと…
昨日に続いて、昭和7年(1932)の秋の陸軍の演習で社町(旧)に宿営したときの受入れに関する書類を紹介します。町長から各区長、団体長に出されたもので、軍隊の受入れ、対応等についての希望事項が書かれています。 昭和七年十一月一日 社町長 石井市…
昭和7年(1932)の秋、陸軍が秋の演習のために社町(旧)に宿営する際の受入れに関する書類があります。今から70数年前のことですから軍隊の宿営を体験し記憶している人は少ないはず。それでも「あの家(店)には偉い軍人が泊まった」といった話は聞…
大正15年(1926)の社町立農業補習学校(男子部)の名簿があります(写真)。実業補習学校は小学校の補習、職業教育を行うために設けられ、農村部では農業補習学校が設置されました。兵庫県では大正時代に始まったようですが、社町(旧社町のこと、今…
今から80年前の昭和3年度(1928)の社町社区(現、加東市社)の収支予算があります。昭和3年の2月の評議員会で協議されたものでしょう。この歴史ブログで昭和5年の収支予算書を紹介しましたが、5年のものは活字印刷で、3年のものはガリ版刷りに…
昭和5年(1930)、社尋常高等小学校では、「母の会」を開催しています。母の会とは、今でいえば保護者懇談会だと思いますが、保護者以外の一般の方の出席についての協力願いも兼ねて、その開催について、校長から区長宛に出された文を紹介します。※一部…
昭和5年度(1930)の社町社区の収支予算書があります。今の加東市社地区にあたりますが、主な支出を挙げてみると、前年度不足(24%)、役員報酬(15%)、次に宮割(11%)、消防組補助(8%)、青年団補助(8%)などになっています。写真は…
昭和4年(1929)、加東郡農会主催の多収穫講演会が元郡公会堂(現明治館)に於いて開催されています。講師は滋賀県の若林善右衛門氏で反当7石という多収穫記録を樹立したその体験談を語るというものです。 その通知とビラを紹介します。 社農第一三三…
昭和5年(1930)、国産品を愛用しようという運動が展開されています。 昭和5年7月16日には、兵庫県と加東郡各町の合同主催で、国産愛用講演会が元加東郡公会堂で開催され、大阪商科大学教授の松崎壽氏が「我国ノ経済ト国産奨励」の演題で講演してい…
昭和5年(1930)、社町の元加東郡公会堂で軍事映画の活動写真会が開催されています。 元加東郡公会堂は加東市明治館として現在もさまざまな催しに使われていますが、今年の12月14日の義士祭の取り組みとして講談の会が開かれました(写真)。その時…
昭和2年(1927)4月に校長から各区長宛に出された社町農業補習学校の報告文書を紹介していますが、今日は3回目。残りの部分を紹介します。この中に補習学校の時間割が出ています。 学科は国語、数学、公民、農業の4科目。研究科では自由研究もあり、…
昨日紹介した社町農業補習学校についての文書を続いて紹介します。 昭和2年(1927)4月の生徒の出席状況を部落毎に統計したものが区長宛に報告されています。これをもらった区長は他の部落との競争心がわいたことでしょう。松尾、鳥居両部落は百%出席…
戦前、夜間の定時制実業学校がありました。これは、産業の発達によって、実業教育の必要性が高まり、小学校教育の補習と簡易な職業教育を行うものでした。設置者は市町村か私人で、実業の教科はその地域の産業の特性によって農業や工業などを選択できたよう…
12月14日(日)、加東市家原の観音寺で義士祭が行われました。「世界に一つ」加東遺産10選にも選ばれている観音寺の義士菩提所には、日曜日ということもあって多くの人々が訪れ、義士の墓碑に線香をあげたり、地元家原地区の皆さんによる甘酒の接待な…
今から78年前の昭和5年(1930)の秋、陸軍歩兵第39連隊が社町(旧:今の社小学校区)に宿営することになり、その要綱を紹介しています。現在では身近に自衛隊員の姿さえ見ることは珍しく、ましてや分散宿泊など考えられなくなっています。加東市に…
昭和5年(1930)の秋、陸軍歩兵第39連隊が宿営することになり、社町長から関係の区長宛に宿営要綱が送られています。通知、要綱を読むと、兵隊の宿営をどのように受け入れていたのかがよく分かります。 昭和五年十月十七日 社町長 石井市太郎 社 関係…
加東市社の市街地(商店街)に「義士祭」の幟が目立つようになりました。今年は忠臣蔵の映画などでおなじみの義士の衣装にちなんだ幟のデザインになっており、白黒のシンプルなものですが逆に目立っています。 さて、加東市家原の旧国道175号と社環状線の…
昭和5年(1930)、衛生健康週間の講演会への出席について、念押しの通知が社町長から区長宛に発せられています。講演だけではなく、余興として浪花節や漫才も準備してあるところなど、いつの時代もこうした行事への出席促進について主催者側は苦労して…
12月7日(日)、加東市松沢の東福寺で護摩焚が行われました。午後一時過ぎから護摩焚き、火渡りの行事が行われるということでしたが、私は同じ時刻に別の会場での行事があり、残念ながら護摩焚きを見ることはできませんでした。 昼前に参拝すると、地元松…
昭和2年(1927)の夏、県会議員選挙の心得に関する講演会の開催についての通知が出ています。 大正14年(1925)に普通選挙法が成立し、翌15年には府県制の改正が行われ、県会議員選挙の選挙権および被選挙権も大きく拡大しました。それまで制限…
戦前の社区の文書綴には、毎年、佐保神社(加東市社)の例祭の案内通知が綴じられています。その形式、文面は毎年変わりませんが、今日は昭和4年(1929)のものを紹介します。 (案内) 拝啓 時下秋冷之節 益々御清福奉賀候 陳ハ当神社例祭典来十月十五…
「昭和4年4月 雑書綴 社町社」には、主に通知などの印刷物が綴じてありますが、なかに手書きの手紙類も丁寧に綴じられています。その一つに昭和5年(1930)3月18日付で、婦人会長から社区長宛の手紙がありました。 社小学校で開かれる学芸会で敬老…
昭和4年(1929)の夏、元加東郡公会堂(現在の明治館)では活動写真会が相次いで開催されています。大正から昭和初期にかけて活動写真が普及し、公会堂はその映写会場として活用されていたことがよく分かります。2つの活動写真会の案内を紹介します。 …
昭和4年(1929)、昭和天皇は兵庫県下に行幸されました。行幸に関して、社町では国旗掲揚を通知し、赤十字社では鹵簿奉拝希望者の募集を行っています。 鹵簿(ろぼ)とは、天皇行幸のときの行列のことです。 社通一第一三四五号ノ一 昭和四年六月一日 …
来年5月に始まる裁判員制度に向けての準備が進められていますが、わが国では戦前に陪審員制度があり、大正12年(1923)に法律で定められ、昭和3年(1928)から実施されました。 陪審員制度を実施するには陪審員を決めなければなりません。その候…
平成18年12月6日のこのブログで、昭和2年(1927)に制定された明治節(11月3日、戦後は「文化の日」)について取り上げましたが、制定後初めてその日を迎えるにあたり示された「明治節に於ける家庭行事」と題した印刷物の全文を紹介します。 明…