ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧

加東四国霊場十八番-岩屋の薬師堂

田植えが終わり、山の緑と田圃の緑が日に日に濃くなっていく今日この頃です。東条川にそって県道小野藍本線の岩屋地区を走っていると、左手山際に屹立する大杉が目につきます。そして、そこに神社とお堂が見えます。このお社は八幡神社、お堂は岩屋の薬師堂…

掎鹿寺-古寺と義経道

加東市天神の一之宮神社の前の道をさらに山の方に向かって緩やかな坂道を上っていくと、掎鹿寺(はしかじ)にたどり着きます。 掎鹿寺は、伝えられるところでは、推古帝2年(594)に聖徳太子によって創立されたとされています。聖徳太子が諸国を巡り仏教…

天神の一之宮神社

加東市天神の市街から坂道を上ったところに一之宮神社があります。この神社の祭神は素戔嗚尊で、伝えられるところによれば、素戔嗚尊が諸国を巡られてこの地、掎鹿の里に立ち寄られ休息をされたことからこれを尊んでお祀りしたとされています。 坂道の右手に…

昭和45年-県立社高校地歴部研究集第1号

本棚を整理していると出てきたのが、見出しの「兵庫県立社高校地歴部研究集第1号」です。昭和45年(1970)5月1日発行となっています。今から42年前のこと、ちょうど私が社高校に在籍していた時(44年入学47年卒業)のものです。顧問は吉田省…

昭和3年-社町で航空思想普及講演会

昭和3年(1928)2月25日、加東郡元公会堂(現明治館)で航空思想普及講演会が開催されています。その案内通知が「昭和弐年四月 雑書綴 社町社」の中に綴じられていました。 講師は陸軍中将の谷田繁太郎。講演と航空に関する映画となっています。会場…

昭和2年-愛国婦人会の入会チラシ

「社町社 雑書綴 昭和弐年四月」の中に、愛国婦人会のチラシが綴じられています。A4判より少し大きく、「主旨書」「愛國婦人會定款」「愛國婦人會徽章佩用規則」「総裁以下役員」「本部、支部、委員部所在地」が両面に印刷されています。 「主旨書」には、…

昭和13年-農繁期託児所の設置

昭和13年(1938)、農繁期の託児所設置に関する通知が社町長から各区長宛てに出されています(諸通達綴 社区事務所 自昭和13年4月至14年2月)。昭和30年代はじめ、田植えや稲刈りの農繁期には私も母親に連れられて、母の実家に一緒に泊まり込…

昭和池から谷を渡り台地へ

国道372号を加東市上鴨川から上三草にかけて走っていると、雨に濡れた山の緑が迫ってくるようでした。山口で旧道に入り、景色を楽しみながらゆっくりと車を走らせていると、上三草の集落に入る手前で、この歴史ブログでも紹介をしてきた磨崖仏が刻まれた…

三草国民学校の写真

台風に備えて片付けをしているところへ、友人が本と写真を持ってやってきました。家の中を整理していて出てきたもので、要るならどうぞということでした。 写真は三草国民学校時代の記念写真で、友人の母上が若い教師だった頃のもの。すぐに見つけることがで…

関東大震災15周年記念日の通知-昭和13年社町

社区事務所(現在の加東市社区域)の「諸通達綴」(昭和13年4月~14年2月)の中に、社町長から各区長宛に出された関東大震災15周年記念日に関する通達が綴じられています。 当時の社町長は大橋實次氏。後に日本運送の社長としてわが国の運輸の発達に…

昭和56年-ボートの浮かぶ東条湖

昭和56年(1981)に東条湖畔からダム方面を撮影した写真です。明るい光の中に豊かな水を湛えた東条湖。湖面にはボート、湖畔には観光地らしく店などが見えます。ダムの語り部だった藤原産の食堂も小さく写っているはずです。手前にはボート乗り場が見…

昭和56年-東条ダム・東条湖を見下ろす

この写真は、昭和56年(1981)の東条ダムと東条湖を見下ろす岩壁の上から撮ったものです。ダム建設のコンクリート工事足場が残っており、そこから満々と水を湛える東条湖が見下ろせました。 当時、私は創立2年目の兵庫教育大学の附属小学校の4年生の…

姫滝を下る高瀬舟

この絵は、かつて加古川を上下していた高瀬舟が米俵を積み込んで加東市新町と上滝野をつなぐ滝見橋の下手にある姫滝あたりを下る風景を描いたものです。作者は故尾縣齊さん。原画はもっと広い範囲を描いてあるのですが、その一部を切り取って写したものです…

朝光寺の鐘楼-鎌倉時代の優美な姿を伝える

朝光寺(加東市畑)には、国宝の本堂のほか、重要文化財の鐘楼があります。今回の本堂の屋根葺替修理の現場説明会では、本堂を覆う工事足場に上り、普段は見ることの出来ない位置から仁王門や多宝塔、そして鐘楼を見ることができました。特に鐘楼は本堂のす…

国宝朝光寺大屋根の鬼瓦-阿吽・日月

加東市畑の朝光寺の国宝本堂の屋根葺き替え工事の現場説明会で見学した大屋根、仁王門を紹介してきました。今日はその大屋根の天辺に置かれていた鬼瓦、古いものを紹介します。 この2枚の鬼瓦は境内の工事事務所の1階に他の年代毎の瓦とともに置かれていま…

朝光寺の仁王門を見下ろす

加東市畑にある朝光寺の国宝本堂の屋根葺き替え工事の現場説明会のもう一つの楽しみは本堂の屋根の高さから境内を眺めることができることでした。 足場に取り付けられた坂を上っていくと、すぐ目の前に、というより下に仁王門の屋根がみえました。本来ですと…

国宝朝光寺の鬼瓦

11日(日)、加東市畑の国宝朝光寺本堂の屋根葺替工事の現場説明会が行われました。今回は2回目で瓦の葺替がほぼ終わり、近く工事足場が撤去されるその前に行われたものです。 今回は鬼瓦を見ることができました。工事事務所に展示されたこれまでの鬼瓦を…

東条ダム建設物語-土井立退の由来④

東条ダム建設物語-土井立退の由来も今日で4回目。最終回です。包み紙の裏に書かれた藤原栄さんのメモをそのまま紹介してきました。少し甲高い藤原さんの声が聞こえてきそうです。捨身はありし日の土井部落ですが、○印のところにダムが造られました。 ○二十…

東条ダム建設物語-土井立退の由来③

今日も「東条ダム建設物語-土井立退の由来」を紹介します。今日の写真は、ありし日の土井部落です。藤原さん経営の食堂に掲げられていました。 ○二十六年十一月東条湖が完成したのです。その暁きに、湖の命名が名付られ、国営兵庫県立自然公園と、指定を受…

東条ダム建設物語-土井立退の由来②

昨日につづいて、東条ダムの語り部、藤原栄さんの「土井部落立退の由来」メモを紹介します。 ○二十三年より本格的なダム築造に日夜後退で二五〇人が現場で急ピッチの着工でありました。二十二年から起工され、二十六年へと、五ヶ年を費して築造されます。立…

東条ダム建設物語-土井立退の由来①

加東市東条地区にある鴨川ダム(東条ダム)は、戦後第一号の国営ダムとして昭和26年(1951)11月に完成しました。 このブログでも何度も紹介してきましたが、今回は、ダム建設で湖底に沈んだ土井部落の立退きの由来を東条湖畔で食堂を営みながら語り…

昭和40年-社小学校の修学旅行③

昨日に続いて、昭和40年度の社小学校の卒業旅行のしおりの残りのページを紹介します。持って行くものの中に、米五合とありました。当時はまだ旅館に米を持って行っていたんですねえ。あまり覚えはないんですけれども。小遣いは800円。今はどれぐらいで…

昭和40年-社小学校の修学旅行②

昨日に続いて、昭和40年度の社町立社小学校6年生の修学旅行のしおりを紹介します。行程はバス、船を乗り継ぐ”大旅行”になっていますが、どうも船に乗った記憶がありません。覚えているのは、奈良の宿だった金波(きんぱ)旅館の名前と夜の枕投げ。写真は…

昭和40年-社小学校の修学旅行

昭和40年(1965)、私は社小学校の6年生でした。今から47年も前のことです。秋の10月7,8日の1泊2日で京都、奈良方面に修学旅行に行きました。日付を記憶しているはずがありません。部屋の整理をしていると、「卒業旅行のしおり」が出てきた…

高岡了徳寺の山門-穂積陣屋表門

田植えが始まった加東市高岡の田圃を見ながら加西市との境近くの了徳寺を訪れました。創立は天正13年(1586)、ご本尊は阿弥陀仏、真宗大谷派東本願寺の末寺です。この了徳寺の山門は市の指定文化財になっていますが、元は、穂積陣屋(加東市穂積)の…

加東四国八番霊場-上三草の観音堂

加東市上三草、三草小学校へと上る坂道が大きくカーブする手前で左手の山の中にお堂が見えます。これが観音堂です。竹藪に囲まれた境内は静寂に包まれており、殉国碑、お大師さんの像などが並んでいます。お堂には「加東郡霊場八番 本尊観世音菩薩 観音堂」…

消防-友藤岩太郎の碑

加東市社の市街地の東に百旗墓地があります。百旗(ひゃくはた)、百旗立(ひゃくはったい)の地名は源平合戦で知られる一ノ谷の合戦の前哨戦である三草山合戦(三草合戦)で、敗走する平氏を追って源氏が社の東まで来たとき、百本の白旗を掲げて陣を張った…