ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

観音寺本堂内の四十七義士の人形

 

 14日に行われた加東市赤穂義士祭では、観音寺本堂で追善法要が行われました。続いて、墓(墓碑)にお参りしたあと、本堂に上がり、堂内を見せていただきました。
 現在の本堂は昭和61年(1986)に再建されたものです。堂内には、御本尊の三十三体観世音菩薩が安置されています。そして、右の棚には、討ち入りの装束姿の四十七義士の人形が飾られていました。
 菩提所の墓碑の配置は、主君を仰ぎ、取り巻くように義士の墓地が配置されていますが、堂内においても、大石内蔵助、四十七義士が主君を守るように控えている感じが伝わってきました。

子どもの頃の冬の思い出ー雪、氷、初参会、三草山・・・

 この頃、自分が小さかった頃のことをよく思い出します。
 今から5、60年前の昭和時代、私が小さかった頃は、この辺りでも、冬にはよく雪が降っていたように思います。そう思っているだけで、実は雪が降った記憶だけが残っていて、そう思うのかもしれませんが。窓から上体を乗り出し、空を見上げると、灰色の雪が次々と落ちてきて、口を開けて受けようとした場面などは鮮明に蘇ってきます。
 また、小学校の理科の宿題だったと思うのですが、アルミの弁当箱の内側に線を書き、その線まで水を入れて、一晩外に置いておくと、朝には、水が凍って線の上まで盛り上がっていました。先生が、水は凍ると体積が増えることを実験で確かめさせようとされたのでしょう。当時は、結構不思議に思ったものです。実は今でも原理はよく分かりません。ただ、冬になると、屋根の上の太陽熱温水設備に送る管の水を抜いておかないと、破裂して水が屋根に流れ出すことがよくあったので、水は凍ると膨張するということを体験的にはよく知っていました。
 子どもの頃、1月15日の成人の日に町内会の初参会が行われていました。私の住んでいる町内会では、集会所がなかったので、各家を持ち回りで、会場としていました。ある年に、わが家が会場となり、町内会の婦人会の皆さんが台所で、お酒を燗したり、お茶を出したりにぎやかに動きまわっていました。家の中の一番広い部屋で、総会が開かれ、行事や会計報告などが行われ、やがて、会長選出の話し合いに入ると、お酒が入っているので、お前がやれ、いやお前が、などと譲り合いが延々と続きます。朝から始めて夕方までやっていたような記憶があります。当時の父親らの世代の懐かしいおじさん達の顔と声が浮かんできます。今では、みんなあの世に逝かれてしまいました。もちろん、婦人会のおばさん達もですが、中にはまだご健在の方もおられます。
 中学生の時にわが家に番が回ってきた年は、家にいても居場所がないので、三草山に一人で登ったことがありました。今のように登山道が整備される前の話ですので、国土地理院の地形図とコンパスを手に、沢から登り、尾根筋へ出るなど、道なき道を登っていったのでした。途中、炭焼き窯のあとがあったり、雪の吹きだまりがあったりして、結構な冒険でした。
 家に帰って父親から「三草山をなめたらあかん。遭難した人もいる」と注意されたことを今も憶えています。心配して言ってくれたのだろうと思います。 

加東市赤穂義士祭ー義士の忠義を偲ぶ

 


 14日(木)、赤穂義士討ち入りのこの日、加東市家原の観音寺では、加東市義士祭が行われました。
 寒風が吹いたり、雪が舞う年も多い中、今年は穏やかな天気で、コロナ前とほぼ同じ形で行われました。
 10時30分から本堂で追善法要が営まれ、加東市内の寺院の僧侶による読経、参列者の焼香が行われました。続いて、境内の一角にある義士の墓碑がある菩提所で中央の浅野家当主四代の墓碑に焼香しました。
 焼香を終えると、家原地区の皆さんによる甘酒のお接待を受けました。奉賛会長の澤野祥司会長は、法要の終わりの挨拶の中で、東京品川の泉岳寺と赤穂の花岳寺、そして、加東市の観音寺の3ケ所にしかない四十七義士の墓(墓碑)をもっと多くの人に知ってもらい、訪れてほしいと述べ、そのために駐車場の整備が必要と話していました。
 本堂の横では、社連合区の役員さんらによるくじ引きも行われました。また、午後からは、江戸から赤穂への早駕籠に因んだ駅伝大会(市内中学校)や剣道大会が行われました。
 この日、かわいいこども園の園児たちもお参りをしました。私も社保育園の園児だった時にやはりお参りをしました。もう60数年前のことです。また、昭和40年代半ばの社中学校の生徒だった時には、駅伝大会にも出場しました。当時は、社の市街地がコースになっていたので、母や近所のおばさん達が声援を送ってくれました。また、兵庫教育大学附属中学校の教員だった時には、駅伝チームの引率やコースで応援をしたのも懐かしい思い出です。そして、連合区の役員だった時には、ドラム缶のたき火、くじ引きの係もしました。小さい頃から大人になるまで、この観音寺での義士祭にかかわりを持ってこられたことを懐かしく振り返る日でもありました。

冬の朝のステラパーク ふたごが見つめる景色は

 

 加東市社の社中央公園にステラパークがあります。円形の芝生公園で、ステージや周囲を取り巻くベンチもあり、市のさまざまなイベント会場に使われています。普段は子供達が遊んだり、朝のウォーキングにも使われ、親しまれている公園です。
 この公園には、12星座の石造モニュメントが配置されています。世界各国の芸術家が制作したもので、一つ一つに制作者の出身地、氏名が刻まれた石板が置かれています。このブログでは、おうし座のモニュメントをよく紹介しましたが、今日はふたご座を紹介します。
 2人のふたごが円形芝生広場の東側から西の方角を並んで眺めています。二人の目線は少し上向きで、遮るものがない広い空、そのかなたを見つめているように見えます。作者はクレア・マクアドルさんで、アメリカ出身です。
 その表情を見ていると、イースター島のモアイ像を思い浮かべてしまいます。そういえば、ふたご座流星群が見えるそうですが、この2人もみているでしょうか。 

雨上がりの庭に大ミミズ


 12日(火)の朝、ウォーキングから帰って来て庭に出ると、赤い南天の実に雨滴がついて鮮やかさが目立っていました。
 ふと、足下で何か動いた気がして、よく見ると、白式部を植えている鉢の縁に大きなミミズが出てきていました。10センチは軽く越えているでしょう。鉢の縁から一部を乗り出して、さかんに動いています。その先端が頭部でしょうか。目はあるのかなどと考えながら、しばらく眺めていましたが、どうも鉢から出ていけないようでした。
 庭では、時に巨大なミミズに出くわすことがあります。今日のミミズはまあ大きい方でした。小さい頃、庭で土を掘ってミミズを捕まえて、これをエサにして魚釣りに行っていたことを懐かしく思い出しました。もちろん、もっと小さなミミズでした。 

加東バスターミナル交流広場halkからの夕景


 加東市社の加東バスターミナルには、交流施設「halk」が設けられ、休日などには、マルシェなどの催しが開催され賑わっています。
 普段は、路線バスが発着しますが、広い駐車場があるので、観光バスやコミバス、タクシーなどの発着、乗降場所として利用され、便利になっています。また、ジャスコ、Bioショッピングパークなどの大型量販店に隣接しており、買物にも便利ですが、中心市街地活性化の拠点として整備された趣旨からすれば、今後の周辺整備が期待されるところです。
 以前にもこのブログで紹介しましたが、この場所は、弥生時代から人が住み米作りをしていた痕跡があり、2千年の歴史が積み重なっています。弥生時代人も古墳時代の人々も、この場所で、広い空から地平線に沈んでいく夕日を眺めていたと思うと、なにか心が解きほぐれていきます。時々訪れては夕景を眺めます。 

紫電改、自走榴弾砲、気球-鶉野飛行場跡で考える

 

 10日(日)、加西市鶉野飛行場跡の「sora加西」で催し物が行われました。加東から車で向かっていると、気球が浮かんでいるのが遠くからも見えました。天気もよく、暖かいなか、気球からの眺めはさぞ素晴らしいだろうなと思いながらの運転でした。
 飛行場跡には、陸上自衛隊の自走榴弾砲2門、ミサイル発射装置車が展示され、多くの人が写真を撮ったり見学していました。格納庫では、紫電改の実物大模型の前で、地元ボランティアの方が解説をされ、飛行服に身を包んだ方が操縦席に座っていました。エンジン音(音のみ)が流れ、紫電改が格納庫から引き出される光景は,太鼓屋台が多くの担ぎ手に担がれ倉から出る場面を彷彿とさせるような感動がありました。
 空に気球、飛行場跡に自衛隊装備、そして紫電改(実物大模型)が並び、平和であることのありがたさをしみじみ思う一時でした。しかし、この自走砲が、ミサイルが他国の侵略を抑止し、平和を守るためのものであることを同時に思う危機の時代に生きていることも忘れてはならないと思うところでした。
 「sora加西」の研修室では、兵庫県遺族会の青年部主催の語り部の会が開かれました。遺骨収集報告、遺児の体験などを聴き、あらためて、戦争を体験された世代の方々の悲しみや苦労に、そして何よりも南洋の島々で祖国からの遺骨収集を待つ戦没者の声なき声、極寒のシベリアに抑留され、祖国の土を踏むことなく亡くなられた方々の声を聴いたような気がしました。