昭和5年(1930)1月30日、義士会についての記述が父の日記にありました。1月30日は旧暦12月14日にあたります。この日に討ち入りにちなんで、義士ゆかりの地、社で義士会が開かれたものと思われます。
義士会の為にと在って姫路よ里稲垣少将の来社有りとて青訓所より出迎えを決定されたり。充分に眠る事を希し居りしには可らずや九時集合の由聞きつれば少々早くよ里小学校に行けば誰も居らず。ために気晴らしのためと思ひ雪の降り残れる山を歩きたり。 ~中略~ 夕刻は早目よ里義士会の活動にと出可けたるに木戸無料の事とて見物人多きこと近来に稀と覚ゆ。
同じ昭和5年の12月14日には、「義士会」のことが日記に書かれています。これはすでにブログで紹介しましたが、再度掲載します。
五時参拝。七時頃迄宮の境内の掃除で夜が明けた。出席する者は極一部分の人々のみである。
今日は義士会だ。荷物は来てゐる。仕事は午後一時終了三時迄副□□のような仕事がすむとそれから早ぐ用意にかかつた。松原君を訪ねて衣裳の用意。午後六時頃からみな出席したので配役の割当を定めた後用意の□□にのったのだ。吉良上野介は配役として悪顔である。高瀬君と八時過ぎ炭部屋でなかったが家根にかくれた。太鼓がなつて探したが見当らずに終る。見物人の多いこと祭礼の宵祭のような人出で賑はつてゐた。赤岸観音寺参拝、記念写真二枚を撮影した後帰着。眠かった。それから石井君と錦波に行つた。眠かった。一時半就寝。
翌昭和6年(1931)2月1日は旧暦12月14日。父の日記には「義士会」の見出しがあり、次のような記述がありました。
~前略~ 午後五時前に森本君が訪れて来た。そして友達を社の駅前から呼び返して赤岸の四十七士の記念の墓参りをした。 ~中略~ 青年の墓参りをやめて藤原君のたいやに行く。 ~後略~
これだけしか書かれておらず、何か催しがあったようには思えません。昭和6年の12月14日には義士会に関しては何も書かれていません。そして、翌昭和7年(1932)1月21日(旧暦12月14日)には義士会が開かれたことが書かれていました。
~前略~ 義士会に於て自分は世話の役だ。相撲が午前□時半にある。栗栖先生、田畑先生が生徒を引率して参拝してゐた。相撲は優勝は窪田支部□□君の一人抜は出水支部の大橋君が獲得し四時半終了。~中略~ 午後六時から夜の演芸の世話。十時半迄。
昭和5,67年の日記には義士会のことが以上のように出てきます。新暦で行われたり旧暦で行われたりしていますが、青年団が中心となって相撲や演芸などの催しをしていたことがうかがわれます。