ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

師走の社市街地に義士祭の幟が立てられました

 


 朝のウォーキングで加東市社の市街地を歩いていると、師走の訪れを知らせるように赤穂義士祭の幟が立てられていました。
 12月14日に市街地の北端、家原の赤岸観音寺で赤穂義士祭が行われます。今年は木曜日の平日になります。観音寺では、義士追善法要、加東市中学校駅伝大会、剣道大会、くじ引き、甘酒接待などが行われます。写真は去年のようすと御朱印です。
 加東市、小野市、加西市など、北播磨には赤穂藩の領地があり、赤穂との縁が強い地域でした。加東市穂積には、赤穂藩郡代が置かれ、四十七義士の一人、吉田忠左衛門が駐在していました。旧加東郡(現加東市、小野市域)内に24か村、8200石余が赤穂藩領だったのです。観音寺のある家原をはじめ、鳥居、田中、窪田などの村々がそうでした。
 また、寛文11年(1671)には、赤穂藩浅野家の相続で、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の11か村(3500石)が分知されて、家原浅野氏が創立されました。この家原浅野家は、その後7代200年続いて明治維新の廃藩まで続きました。家原には陣屋が置かれ、家原浅野家の祈願所として観音寺がつくられたのではないかと伝えられています。
 元禄15年(1701)の討入りから150回忌が近くなった弘化4年(1847)に善龍院(加東市社の寺院、家原浅野家の菩提所)の住職明範が観音寺境内に四十七義士の石碑を建立して回向をし、義士の忠誠を称えていこうと勧進(寄付)を行ないました。これには旧赤穂藩領の村々や有志が進んで寄付に応じ、墓碑が建立されたのです。まさに義士の忠義の志、精神を伝えていこうとする多くの人々の願いが実現したということです。観音寺が赤穂義士の寺と呼ばれるのは、こうした理由からです。義士の墓といえば、赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺が知られていますが、加東の観音寺にも四十七義士の墓碑があることは全国的には知られていません。
 昭和のはじめに地元の青年団員によって義士祭が行われ、義士行列や早籠に因んだ青年団の駅伝や剣道大会などが行われ、時代とともに形は変わりながらも今の時代に受け継がれています。そんな伝統の赤穂義士祭が近づきました。詳しくは、この歴史ブログに何度もしょうかいしていますので、検索してみてください。