ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和7年-青年団が敬老会

 昭和7年(1932)、青年団が町の高齢者を招いて「敬老会」を開催しています。この「敬老会」については、今年の2月9日付のこのブログで案内状を紹介しましたが、その準備についての記述が父の日記にあったのであらためて紹介します。
 当時、青年団は令旨塔の建設に力をいれていましたが、その中にあって敬老会の開催にも取り組んでいたということです。準備の餅つきのことなども書かれていますが、その中に早く母親を亡くした父が母親と一緒に餅つきをしたことを懐かしんでいる記述もありました。父が自分らはこうした敬老会に招かれることはあるのかと自問している部分がありますが、57歳で亡くなった父はその機会がなかったのです。
 それにしても当時の青年団は元気ですね。そしていいことをしてますね。日記の一部を紹介します。


○一月七日
 ~前略~ 敬老会の仕事も自分が筆頭になってしなければ満足に出来ないと思ったので松原と二人で町の高齢者を訪ね歩いた。 ~後略~

○一月十一日
 ~前略~ 会社の伝票も作らずに青年の敬老会の準備たる餅搗きに出かける。小枝や冨田がやって来て十時過迄には全部揃って餅を搗いた。在りし昔、俺も母親と父と爺さんと面白くこんな餅を搗いた事を思ふ。岡森さんの手を搗いてそれ切り自分は閉口だ。その儘夜迄かかってしまった。餅の喰過ぎで体の調子が悪い。~後略~

○一月十二日
 ~前略~ 敬老会に熱中の準備だがこれも淋しい事だ。俺等が果たして七十迄も生き永らえてこんな催しに列席出来るか。それも一路のローソクの光の様なものだとしか思えない。~後略~

○一月十三日
 午前八時に岸熊に行った。小枝が御飯を炊く用意をしてゐる。真面目らしい話だ。そうしてゐる内に五人十人と連れがやつて来た。折缶の用意にかかってから公会堂の準備だ。之は町の人に好かれなかったら青年が馬鹿かも知れない。十二時迄に準備をすっかり終えてしまった。~中略~

 敬老会は午後二時半に開いて午後五時閉会。出席者五十三名。評議員十二名。盛会であったと思う。夕飯を岸熊で七人食べた。そして皆活動に出かけたものだ。



○資料 青年団から高齢者に出された案内状

御達者で御座いますか
 梅の蕾もふくらみまして白い雪の姿も見ずに新しい年が参りました、遅れ馳せ乍ら例年の通り敬老会を開きまして敬老をねぎらはしたく存じますので甚だお寒い折柄でありますが私等若い者の意を汲まれまして是非共御越し下さいます様僭越ながら御通知申上げます。

 尚附添の方一名必ずお越し下さる様御願ひます

 一月十日

               社 青 年 団
                 岸野助十郎

期日 昭和七年一月十三日 正午
場所 社元郡公会堂

  第三回敬老会
   招待券
  昭和七年一月十三日正午
  元郡公会堂

       様